阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年1月22日
「神の国の喜びと力」
Uテモテ4章2−5節

  「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」                                  (Uテモテ4章2−5節)

 「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」
                                      (Tコリント9章16節)

 何事につけ共に生きる人間にとって自分にできないことと、出来ることがある。人は家庭生活からして生まれて母親の世話になり、人に真似ながら生きるすべを学び、人として生きることになります。学校で学びながら自分の行くべき道を探り、生活の土台である職業に就くことになる。日常的には職業は社会の一部を支えることになるのです。自分の仕事や趣味が生き甲斐となります。仕事には貴賎はないと言われながらも、高度な学識や技術を求められる働きは、人々の敬意を払われます。人が,危急な病気になった時、困難な手術を通して治療を受けた時、人は、手術者の知識と技術に敬意を持ち、命を救うという尊厳の思いに感動するのです。職業にはそれぞれの尊さがあります。社会はその小さな組み合わせで、助け合いで生きるのです。 
自分にしかできないことほど尊い働きはありません。火事にあって人が煙に苦しみ、助けを求めているとき、消防士が遅れているからと言って何もせずに見過ごすことができるでしょうか。子供が水に溺れているとき、誰でも助けようと努力をするのが普通です。聖書は「「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。」(Uテモテ4:2)クリスチャンにとって最大の使命は「み言葉を宣べ伝えなさい。」と言うことです。マルコ福音書16章15節には「全世界に行って、すべての造られたものに『福音』を宣べ伝えなさい。」と言われています。「福音」はイエスキリストの出来事を記録した聖書の「言葉」です。言い換えれば、イエス・キリストの「福音」を信じたもの、即ち、罪深く、真実の神様を、拒絶し、無視し、知らなかった死で終わる、有限の人生の空しさ、儚さ、絶望、の現実から、創造主であり、永遠の存在である神様に生きる救いの道に導かれる恵み。自己主張と自己欺瞞のために、自己中心の罪悪に生きる神の愛を喪失した空しい自分、罪深い惨めさの現実にも気づかないでいるのです。聖書は「だれも健全な教えを聴こうとしない時が来ます。」(Uテモテ4:3)と言っています。言い換えれば人間は「何でもできる」という誤謬が、傲慢となり自己中心の世情が社会のあり方であり、戦乱と欺瞞が満ちているのです。人間は神を忘れ、自己を神の座におきくとき、神を見失う「罪」深い現実となっているのです。しかし、真実の神は「神は愛なり」(Tヨハネ4:8) 人間が真実の神の愛を取り戻し、神の国を生きるものに変えられる。すなわち、神は愛をもって罪過を赦す道、御子イエス・キリスト、即ち、神が人になって人の生きる道、罪赦され救われる道を示されたのです。有限の命、死で終わる命、滅びの命から永遠の命、終わりのない神のみ国の命、その約束こそは「神の愛」すなわち「神の国」に生きることであり、神と共に生きる現実としてくださるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
「福音」とは人間を真実の神様の道に立ち返らせ、永遠の命を自覚し、御子イエス・キリストを犠牲にしてまで神の愛をお示しになったことです。
この「福音」はキリストを信じ、神を愛し、人生の生き甲斐として「神の栄光」を人生の目的、永遠の命の支えとらえ、クリスチャンにとって、「キリストの福音を伝える」ことこそクリスチャンにしか、できないことです。
ある人類学者の研究によれば、世界中の人の居るところには「宗教」があるというレポートがあります。その宗教は大きく3つに分類されると言われています。自然宗教、すなわち存在する自然、山や、川、滝や、樹木などを人を生かす神として拝み、また哲学的宗教である仏教出会って、生きることを考え、死と生の悲しみと虚しさ、儚さを考えて、悟りを開くものです。そこでは自然を拝むことは、創造されたものを拝むことになり、また哲学的な宗教としての仏教は「悟り」であり、「仏」の意味こそ「悟る者」であるのです。そして真実の存在者、創造主の根源者なる神こそが啓示宗教と言われ真実の神の根源であるのです。宇宙森羅万象を創造された神こそは真実の神であるのです。聖書は「人を神に似せて造られた。」(創1:27)そして世界を「治めるように委ねられた」と記しています。人間は他の動物と違って、人は動物でありながら、存在の中心は「心」であり「霊的存在」押して神を求めて宗教を尋ねるのです。真実の神の本姓は「神は愛なり」、人は「男と女に造られた」(創1:27)と言うのは「愛し合って人になる」と言う原理を示されていると言えます。そして「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ6:48)このお言葉が示しているのは、「完全」は「聖」と同じであり、「愛」こそ、人を生かす命であり、「霊」であるのです。人間は真実の神に出会わない時、信じない時、自己保存の本能としての自己愛に生きることになります。夫婦や親子、友人と居た中では、自己犠牲にして生きることもあるのですが、親子や兄弟と言えどもある時は血肉の争いに明け暮れる時があります。ひとは罪深い存在です。真実の神様の御心に生きることこそ、互いの罪を赦しあうことしか道はないのです。人間が、真実の神を信じ、「神の愛」にいきるところに神の愛に生き、「有限な命」に終わるのでなく、死を超えた「永遠の命」に生きる平安を与えられるのです。
神様は「愛」であることを示し、愛に生きる人の救いの道を示すためにイエスキリストをお送りになったのです。日本では古来の自然宗教にもとずく神仏混淆の宗教観から人と神が同じにしか理解されtって来ませんでした。人間が死ねば神になり、仏になるという習俗で社寺が造られてきたのです。真実の神は創造主であり、「愛」と「聖」そして命の根源者成る「霊」なる神であるのです。神は「愛」アガペーであるゆえに神自身が人になられて、自己保存本能の罪深い存在である人間を真実の神に立ち返るべく自己を犠牲にして「愛」を現し、真実の神の道を示されたのがイエスキリストであるのです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:7−12)
 私たちが神の愛にとどまるならば、神は目に見えなくてもキリストが共に居て下さると約束しているのです。これぞ「福音」です。神の国、神が共におられるところ、キリストの教会こそが神の国の場であるのです。
 この喜びこそクリスチャンの命であり、力です。 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」
(Uテモテ4:2)
福音をまだ知らない人々に、伝えようではありませんか。真実の神を!神の愛、キリストの十字架の福音を!罪の赦しと福音の和解を!永遠の命を!家族に、友人に、知り合いの人々に!感謝と喜びを、祈りに生きる勝利の日々を人々に伝えようではありませんか。




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