阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年1月29日
「生ける水と人の交わり」
ヨハネ17章20−23節

 「また、『彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。』」 (ヨハネ17章20−23節)

主イエスは、弟子たちと共に最後の晩餐を終えると、ご自分の使命達成のために、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」と祈られています。父なる神様と御子なるイエス様が全く一つであられるように、私たち神様に召されたクリスチャンが一つになるようにと祈られているのです。地上を去る前の最後の祈り、その使命を果たされる総括としての祈りであるともいえます。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」
この祈りは、「すべての人を一つにしてください」と、「彼らも私たちの内にいるようにしてください」という祈りです。世界中の人々がイエス・キリストを信じ、「福音」を信じ、神様の愛に生きる神の国を造るようにと願われているのです。その結果、私達クリスチャンをイエス様が遣わされていることが解ります。言い換えれば、「福音」を全世界に伝えることが実現するという願いがある事になります。
 主は、最後の別れの時に、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と弟子たちに命じられました。正に、この言葉こそはイエス様の願いであり、使命であり、祈りでもあったと言えます。 主イエス様の最後の願い、ご命令であると言えます。 
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」と祈られたのは、父なる神様と子なる神が全く一つであるように、「福音」を信じ、「福音」に生きている人々が“一つ”になるようにと願われているのです。
 人が一致することは、困難であるとさえ思えます。その困難なことも「福音」によって、愛なる神は可能にして下さることを忘れてはなりません。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」                           (ヨハネ7:37−38)
主イエスは言われるのです。渇いている人は来て飲みなさい。生きるために水がいる、水とは内面的命を指します。キリストの体である教会、キリストの福音に生きているクリスチャンが、「飢え渇く」時、キリストは招いて下さり、約束の「命の水」を備えて下さるのです。人を生かし、人に命を与えられるのです。
 イエス様の、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」というこの招きの言葉は、「福音」を信じるクリスチャンの交わりであり、「福音」の命である神の愛に生きる群れ、教会を指しています。イエス様を通して父なる神様の命、その愛に生かされる時、そこにイエス様の愛の恵みの一致の交わりが人を生かすことになります。
水のあるところに命があります。命のあるところに人々が生き、そこに家族が生まれ、町が生まれます。そして文化の華が咲き、栄えて行くのです。
「水」は人を生かし、繋ぐ命であると言えます。古代にはチグリス・ユーフラテス河、ガンジス河、黄河、ナイル河という大河の河畔から四大文明が生まれたのです。
イエス様が、「渇いている人は、だれでも,私のところに来て飲みなさい」と言われる時、命の水、人を生かす水が与えられて、神の命、「愛」を受け入れることによって、福音が生かされていることになります。
福音に生かされるということは、福音を伝えることであり、命の水に満たされて、神の愛に生きる事を、飢え渇き、戸惑っている人々にイエスの言葉、十字架の言葉、「福音」を伝えることです。
第一に、忘れてならないことは、「福音を宣べ伝える」前に、教会の家族が「福音」に生き、福音の命である神の愛に生き、完全に一致してキリストの愛に生きる交わりでありたいものです。私が神学校に入学した時、初めて手にした神学書に「福音を伝えるまえに教会で愛が証されていなければならない。」(「キリスト教神学概論・桑田秀延著」という言葉があって、今も心に残っています。伝える「福音」と、その福音の中心であるキリストの「愛」に生きる喜びが一つであることが不可欠であることを示しているのです。
福音すなわち、キリストの愛が生き、信じる群れが「一つ」になることを主イエスは最後の別れに祈られたのです。
キリストの生涯の最後の祈りとして、「一致」を祈られたのです。それは信仰の一致、愛の一致、福音を伝える使命の一致、信心の寛容の一致、宣教の一致、ビジョンの一致を実践する願いであるのです。
第二に、キリストによって救われたクリスチャンであっても、人間としての未熟さは付きまとうのが現実です。クリスチャンは信仰が成長すればするほど、キリストに近づけば近づくほど、キリストから遠くある現実が認識されるのです。真実に、教会の「一致」を求めることは難しくなってしまうのです。
使徒パウロはフイリピの手紙で、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(フィリピ2:1−2)と記しました。様々な問題を掲げているフィリピの教会に、いくらかでも「愛の慰め」、「霊による交わり」「慈しみや憐れみ」の心があるなら、「同じ思い」「同じ愛を抱き」心を合わせて、わたし,使徒パウロが喜べるようにしてほしいと願っているのです。
 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」                          (フィリピ2:3−4)
お互いに「自分の事だけでなく、他人のことをも注意を払いなさい。」と警告しているのです。教会のクリスチャンが祈れば祈りほど、キリストに近づき、自己の醜さを発見する。罪深い自己の発見から福音の恵みが確信でき、キリストの愛に満たされるようになります。そして、日々新たにされて教会で真実の愛に生き、恵みの愛に許され、和解と平和が実るのです。
 活きた教会の「福音の証」が、イエス様の最後の祈りを体験させて下さるのです。
「教会の一致」こそ、福音の実りであり、世界宣教への礎です。




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