阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年2月5日
「信仰の力」
ヘブライ11章6節

 主の恵みにより、日々導かれていることを感謝します。寒い毎日ですが、もう梅の花が咲いている所があるそうです。季節ごとに咲く花も、創造主の御手の業と主をあがめるものです。
私たちの教会は、今年の御言葉として、詩編1編2、3節を掲げています。「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
主の教えを愛しとは、文字通り御言葉を愛することです。人が何かを愛するとは、それが生活の中で最優先であるということになります。愛しているけれど興味がないなどということはないはずです。
主の御言葉は真理です。ですから、御言葉を愛する人は、正しい道、真理の光の中へと導かれるのです。主の御心を喜びとし、主を信じて従う者は、主が必ず豊かに祝福してくださるのです。
 私たちの信仰は御言葉によって確かなものにされ、不動のものとされます。ヘブライ人への手紙11章は、信仰の章と呼ばれて、旧約聖書の信仰に生きた人々が列挙されています。エノクの信仰、ノアの信仰、アブラハムの信仰、モーセの両親やモーセの信仰などがあげられています。
 エジプトには、先にヨセフが遣わされ、後にへブル人は飢饉を逃れるためにエジプトで生活するようになりました。時代が過ぎると、ヨセフを知らないファラオによって、増え続け力を増すへブルの人々が反逆するかもしれないと、奴隷状態にされてしまいました。しかし重労働と虐待という圧迫をうけながらも、へブル人は増え広がっていきました。
神は、出エジプトの指導者としてモーセを立てられましたが、モーセが生まれた頃、ファラオは、へブル人の助産婦に男の子が生まれたら殺すようにという命令をだしました。しかし、へブル人の助産婦は、その命令に従いませんでした。ファラオよりも神を畏れたからです。「へブルの女性は健やかで、助産する前に子供を産み落とします」とファラオに答えて子供たちを助けました。神はこの助産婦たちを祝福しました。それは、「神を畏れていた」(出エジプト1:21)からだとあるのです。モーセの両親もファラオには従いませんでした。両親は、モーセが生まれた時、3ヶ月の間隠しました。「王の命令を畏れなかったから」(ヘブライ11:23)とあります。モーセはナイル川でエジプトの王女に助けられ、実の母を乳母として育てられたのです。やがて出エジプトの指導者として立てられました。このように、信仰とは、現実に置かれている所がどのように過酷であっても、権力者や世の力を恐れるのではなく、神を信じて従うことだと、彼らは証しをたてたのです。ファラオは人を生かすことも殺すことも自由にできます。しかし、主イエスはこのようなことについて、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と教えておられるのです。
 信仰とは、口先だけのものではなく、御言葉によって生きる事とわきまえて行かなくてはなりません。
 また、信仰は日々成長していくものです。この地上での生活が終わるその瞬間まで成長しつづけていくのです。
信仰のバロメーターは、愛です。その人の内に神の愛が溢れ、その証しとしての生活が成されているかという事です。
復活の主は、ガリラヤ湖畔でペトロに、「あなたはわたしを愛するか」と、3度お尋ねになりました。「わたしを愛していますか」という問いです。主はペトロに問われた問いを私たちにもされておられます。「あなたはわたしを愛していますか」という問いに、私たちは「ハイ、愛しています」とお答えするのです。
主イエスを愛する者は、人を愛します。大切にし、自分よりも優れた存在として受け入れるのです。人を愛することができない人は、主を愛せないのです。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(Tヨハネ4:20−21)とあります。愛はどのように育つのでしょうか。
@ 悔い改めの中に愛が育ちます。主はすべての人の罪を十字架で贖って下さいました。しかし、人は弱い者です。自分中心な心を持っています。人を裁いてしまうような時があるかもしれません。へりくだって主の十字架の前に出る必要があるのです。「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められわたしは完全になるでしょう。」(詩編19:12−14)詩人は、わたしを罪から清めてくださいと真剣に祈ります。傲慢から引き離して下さいと願うのです。真剣な祈りです。真剣な悔い改めを主は軽んじられません。十字架の血潮によって全く清めてくださいます。そして、改めて主の十字架の愛に満たされるのです。      愛に満たされた者は神と人とを愛さずにはおられません。「人を愛する者は、律法を全うしているのです。姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ8−10)愛は律法を完成させるのです。
A  愛は信仰の力を養います。
人は恐れやすい者です。主が「思い煩うな」と言われても、なかなか平安を持つことができないとしたら、それは主と御言葉を信じていないことになります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Tヨハネ4:18)とあるのです。
これは、愛の中には恐れは存在しないという意味があります。丁度、暗闇の中に一本のろうそくの火が掲げられたら、それは闇ではなくなるように、愛の中に恐れはありません。主の愛を信じきるなら、信仰の力が働きます。主に委ねることの素晴らしさ、感謝、平安に満たされるのです。
B 信仰と愛は実を結びます
実が実ることはうれしいものです。主イエスが約束された良い実を結ぶのです。それは御霊の実であって、内側にキリストの品性をもたらします。さらに、外には魂の実を結びます。
闇の中に、滅びの道を進んでいる人々が、主イエスに導かれて救われるのです。天でも地でも大きな喜びが沸き上がるのです。
神に近づきましょう。神の存在を信じましょう。神ご自身を求める者に報いてくださるお方であることを信じましょう。
内にも外にも愛の実を実らせるクリスチャンとして成長する一年であるよう祈りましょう。

 ページのトップへ
  
2017年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ