阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年2月12日
「主の教会」エフェソ1章23節

 人はイエス・キリストの救いを得て、教会に集うようになります。
人は、信仰を一人では維持できない性質があるからです。そして、信仰者が教会を建て上げていくことが主の御心です。
主イエスが十字架の贖いを成し遂げられ、葬られて三日後に甦られたのは、日曜日の朝早くでした。主イエスを信じる者たちは、この復活を記念して、日曜日に礼拝をささげるようになりました。
クリスチャンにとっても、まだ信仰を告白していない人にとっても、日曜日の礼拝は、キリストが甦られて今生きておられるという、主の記念の日であり、大切な信仰の告白の日なのです。クリスチャンは日曜日を、主を崇め、礼拝する日として聖別します。
人がキリストを信じる事を、「召される」と表現します。また、地上での歩みが終わることも、同く召されると言います。主に呼び出されたという意味です。職業に就くこと、結婚に導かれることも同じ表現をします。夫として召された。妻として召されたという事です。神に呼び出されてそこに置かれたのです。
ですから、私たちは主イエスに導かれ、召されから今ここにいるという事を確信したいと思います。
キリストの教会は、ペンテコステの日に誕生しました。その日、ペトロの説教に応答して主イエスを信じ、洗礼を受けた人が3千人おこされたのです。「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2:42)とあります。教会が始まりました。当時の教会の様子を使徒2章46節以下から見ることができます。まず使徒の教えを良く聞きました。使徒を通して主イエスの教えを聞いたのです。また、主イエスにある交わりがなされました。主イエスを中心にした、聖い信仰の交わりです。「パンを裂くこと」とは、文字通りパンを裂いて、食事をするということです。当時は、礼拝と愛餐がセットになっていました。現在は、礼拝と聖餐、愛餐は別々に行われますが、愛餐は礼拝なのです。また、祈ることに熱心であり、賛美をささげました。そのようにして教会に愛が溢れ、信仰者のうるわしい姿を見た人々は、日々救われていったのです。
その後、迫害が厳しくなっていきますが、エルサレムから散らされて行った人々はその先々で主イエスを宣べ伝え、福音が拡大していきました。
 主イエスが十字架で犠牲になり、人の罪の贖いとなられた目的はなんでしょうか。永遠の命の目的です。
@ 救われた者が神の栄光を現す者とされるためです。
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
(Tコリント6:19,20)と勧められています。私たちは聖霊の宮なのです。主の臨在は、聖霊に満たされた者の集まるところ、教会にあります。
教会は、キリストの体です。クリスチャンはキリストを頭(かしら)とする体の肢体です。目であり、耳であり、手であり足なのです。どの部分も欠けてはならないし、欠けてしまうと体が成り立ちません。キリストの体の肢体として召された自分を確信したいものです。
私たち一人一人はなくてならない存在なのです。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(Tコリント12:21)
そして、主イエスの命で結ばれているので、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(Tコリント12:26)とあります。これが、「喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
(ローマ12:15)とつながるのです。
キリストにより、聖霊により、一致するところに神の栄光は現れるのです。自分の体をもって神を現す生活追い求めましょう。
A キリストの体を建て上げるために召されています。教会はキリストの体であり、私たちはその肢体です。教会とは、神に召されて者たちの集まり、エクレシアを指します。
教会を建て上げるとは、私たち主に贖われ、主に召された者たちが、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長していくことを指します。「こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を過りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:12−16)未熟さとは、真理ではない教えに引き回されたり、弄ばれて信仰がぐらぐらすることです。何が正しいことかわからない子供を指します。成熟した者とは、キリストに対する体験的な知識と信仰によって一致し、キリストの品性に至るまで成長することです。愛の実を結ぶことです。キリストの品性である御霊の実を結んでいくことを知らなければなりません。成長したクリスチャンが御霊によって一致するところに教会が建て上げられて行きます。
 世の中はどんどん変化していきます。価値観も変わります。人の心も変わっていきます。しかし、永遠に変わらないのは主イエスとその御言葉です。
成熟した者は、世が変わっていってもそれによって動かされることはありません。常に主イエスとその御言葉によって生きるからです。主イエスは常に共にいてくださいます。そして、いつも私たちに語りかけられます。「あなたは私と、私の体である教会を愛しますか」。私たちは、「はい、愛します」とお答えするのです。愛するという事は、強い関心を常に持つことです。愛していながら気にも留めないということはありません。愛することは心がそこにあることです。主イエスはご自分の体を建て上げられるため、私たちを選び召されたことに心に留めましょう。
私を霊的に成長させて下さいと祈り、主のために用いられるクリスチャンとされる事、自分が信仰の成長を遂げることが、主の御体を建て上げていくことをしっかりと覚えて、聖霊によって一つとなり、お互いが成長していくことを祈り合いましょう。

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