阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年2月19日
「今という時に」
ルカ4章16―21節

 主イエスがこの地上に来られたのは、全世界の贖いのためでした。
すべての人は罪のために神と断絶し、滅びの道を進まなければなりませんでした。神を知らず罪も分からず、ただ自分が良いと思う道を歩む者でした。しかし、神は人を救いたいと願い、救いのご計画を持っておられました。それは、独り子であるキリストをこの世に遣わされて、信じる者を罪から解放し、永遠の命を下さるというご計画です。
マリアより生まれ、ガリラヤのナザレでお育ちになった主イエスは30歳の時、公の宣教の生涯に入られました。お育ちになったナザレの会堂で、イザヤ書を朗読されました。当時のユダヤ人の会堂では、祈りがささげられ、聖書が朗読されていました、主イエスは定期的に会堂で礼拝をささげておられたようです。
主イエスはイザヤ書61章を朗読されました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18−19)
主が朗読を終えられ席に着かれると、会堂にいるすべての人は主イエスに注目しました。主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と宣言なさいました。まさに今、その通りになったと言われたのです。
メシアの到来と、その目的をイザヤは預言しましたが、今、良い知らせ、福音が告げ知らされたのです。
メシアとは、「キリスト」すなわち油注がれた者という意味ですが、この方によって救いが全世界にもたらされる時代が到来したのです。
「主の恵みの年」が告げられました。主の恵みの年とは、ヨベルの年のことであって、50年目には奴隷は解放され、土地は元の持ち主に返されるという解放の年でした。
主イエスは聖霊に満ち溢れて福音を宣言されました。
ヨベルの年にすべての負い目から解放されるように、今、人は主イエスによってすべての罪から解放され、罪のために見えなかった目が開かれ、何が神の御心かを知ることができるようにされたのです。罪のために押しつぶされていた心が解放されました。心の罪から解放される時、人は生き方が変わります。キリスト中心の生き方に喜びを覚えて、ひたすら主に喜ばれる者になりたいと願うのです。
ルカ16章に、金持ちとラザロという記事があります。金持ちには名前がないのですが、貧しいラザロは、ラザロと名で呼ばれています。ラザロの意味は、「神はわが助け」という意味です。
金持ちは毎日贅沢な衣をまとい、遊び暮らしていました。一方ラザロは、できものだらけの弱った体で、この金持ちの家の門前に横たわり、食卓から落ちる食物が欲しいと思っていたのです。やがてラザロは死に、天国に入れられました。金持ちも死に、彼は陰府で苦しまなければなりませんでした。彼は生前ラザロに酷いことをしたわけではありませんでした。門前にいるからと追い払うこともありませんでした。しかし、ラザロの存在とその困窮さに全く関心がありませんでした。彼の罪は無関心さであったのです。愛の反対は無関心なのです。同情することも、その苦しさを思いやることも全くありませんでした。
陰府の金持ちは、アブラハムにラザロをここに遣わしてわずかな水を与えて欲しいと願いました。ところがアブラハムは、「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」と言いました。「それでは、私の5人の兄弟がこのような所に来ることがないようにラザロを遣わして言い聞かせてください」と願いました。アブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(ルカ16:29)と言いました。モーセと預言者とは、聖書の事です。聖書の御言葉と教えがあると示したのです。金持ちは、なお、「いいえ、父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」(ルカ16:30)と続けました。死者が遣わされて悔い改めを迫れば、きっと悔い改めると思ったのでしょう。しかし、アブラハムは「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言う事を聞き入れはしないだろう」(ルカ16:31)と言ったのです。これは、今、与えられている神の言葉、福音を信じることによってのみ救われるという事です。後からは救いの手立てが途絶えてしまうのです。今、神の言葉、福音を聞いて信じなさいということなのです。
この教えを聞くときに、私たちは厳粛な思いになります。
まず、今は救いの戸が大きく開かれているすばらしい恵みの日であるという事です。だれでも主イエスを信じるなら永遠の命を持ち、喜びの生涯を送ることができるのです。生きていても死んでからも永遠の命に生かされるのです。
やがて、その戸が閉じられる時がやってきます。それは、信じないままで死を迎えなければならないことがあるのです。今を先延ばしにすると、間に合わないかもしれなのです。
この地上の命はいつしか終ります。それはいつなのか自分でもわかりません。ルカ12章にある、愚かな金持ちの例えにある金持ちは、もともと金持ちの上に豊作で、倉を建てかえ、作物をしまって、これから何も心配せず人生を楽しもうと思いました。ところが、「今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ12:20)とあるのです。   人の命は財産によってどうすることもできません。人の命は神のものなのです。生きている限り神が下さった命を大切にし、与えられている救いのチャンスを逃してはならないのです。
チャンスというものは、そういつもいつもあるわけではありません。
救いのチャンスを逃してはならないのです。今救いをいただかなければなりません。
 さらに、この救いを伝えるチャンスを逃してはなりません。今という時は二度はないのです。雨も降らないのに、ノアは神の御言葉を信じて自分の家族を救うために恐れかしこみながら箱舟を作りました。それは信仰によってであったと、ヘブライ11章にはあります。やがて神の手が箱舟の戸を閉じる時がやってきました。それからでは箱舟には入ることができなかったのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリント6:2)です。今こそ誰でも救いを受けられる恵みの時、救いの日です。この今を感謝し、主イエスの救いを受け入れる時です。また、福音を伝えるチャンスをいつも心に留め、ひたすら祈り、神の救いが表されるよう神と共に働く者であり、実を刈り取る者であることを確信しましょう。

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