阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年2月26日
「十字架の許し」
ルカ23章39―43節

 神は、人を愛し受け入れ、罪からの許しを与えたいと願い、その独り子を地上に遣わされました。神に創造されたアダムは、神との調和の世界に生きる者でした。神と親しい交わりを持ち、エデンという園で生きる者でした。しかし、その妻エバがサタンに騙され、神の戒めを破ってしまったために、罪が入ってしまいました。
神は特別に難しい事を人に要求したわけではありませんでした。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」(創世記2:16)これが、たった一つの命令でした。
蛇の姿のサタンは、エバに「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(創世記3:1)と言いました。エバは、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と答えました。アダムとエバは神の言いつけに対して、聞くことが甘かったようです。恵みに慣れてしまったのかもしれません。蛇は狡猾です。エバに語る言葉の中に、神に対する不信と非難が巧妙に含まれています。「何々などと言われた」という言い方は、言った人に対しての非難が含まれ、言われた方に被害意識をもたらすような微妙な響きがあるのです。蛇は非常に巧みにエバを誘惑しました。エバの答えはあいまいでぼやけたものでした。
蛇は、決して死ぬことはない、それを食べると神のようになると誘惑しました。その木の実は美しく、いかにも賢くなるように見えたのです。エバは実をとって食べました。また、夫にも渡して、彼も食べたのです。その結果、神の臨在を覚えた時、神の御顔を避け、隠れなければならなりませんでした。この時から人は罪の中に生きるようになったのです。
パウロは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12)と解説しています。人は霊的な死と、肉の死を迎えなければならない存在となったのです。神の言葉をいい加減にしか聞けなかったことの結果であったのです。神の言葉は注意深く聞き、正確に受け入れなければなりません。
しかし、神は人を愛するがゆえに、救いの道を備えてくださいました。神は蛇に向かって「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」と言われました。これが最初のメシア預言です。すなわちサタンはメシアのかかとを砕くけれども、メシアはお前の頭を砕いて、完全に勝利するという意味です。完全に罪の解決をされるという宣言でした。
人は皆自己中心です。エバは、蛇に騙されたと言い、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)と答えたのです。
「あなたが私と共にいるようにしてくださった女」という言い方は、神のせいであると間接的に言い逃れをしているのです。罪深いことです。アダムとエバはエデンを追放されましたが、神は彼らに、皮の衣を与えました。犠牲がささげられて彼らは覆われたのです。ここに贖いの姿が描かれています。
 人はどのようにして罪から救われるのでしょうか。人は罪がわかりません。この世の中に不幸とよばれるものが多々あります。不可抗力のものもあります。しかしその多くは、罪の結果と考える事ができるのです。人間関係の問題は尽きません。家庭でも職場でも人が集まるところにはこの問題が付きまといます。この問題は、お互いに自分を人よりも優れたものとし、人を下にみるところから始まり、お互いがそのように考えるので、解決することがありません。
高ぶりは罪なのです。
主イエスは、人の心の中にある罪を「人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:21−23)と教えてくださいました。
罪と死の問題は、尽きることがありませんでした。しかし、神は独り子を世に遣わされて、罪の贖いを成し遂げてくださいました。それは、十字架という方法によってでした。
約束のメシア(キリスト)である、主イエスがこの世に来てくださったのは、「仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためにきたのである」(マルコ10:45)と言われている通り、全世界の罪を贖うためでした。主イエスは、ゲッセマネの園での逮捕の後、大祭司の庭、サンヒドリン、ピラトの官邸、ヘロデの官邸、ピラトの官邸へと引き回されました。ピラトの元で十字架刑の判決を受けて、ゴルゴタへと向かわれました。この十字架の時に、二人の犯罪人も主イエスの十字架の右と左に架けられました。主イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。罪が分からず罪を犯しているすべての者のために執り成されたのです。十字架の主を兵士たちも議員たちもあざけりました。犯罪人もあざけりました。しかし、犯罪人の一人は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と言ったのです。主は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。十字架につけられた犯罪人がその生涯の最後に主を受け入れたとき、主はその救いを宣言されました。その前歴も、罪もすべて主が引き受け、完全な救いが与えられたのです。罪に満ち溢れている世界の中に、主の十字架によって救いの道が開かれました。「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受け入れている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が罪びととされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(ローマ5:17−19)
主の十字架により、どのような罪も許され、永遠の命の中に生かされていることは何よりの喜びです。絶えず十字架を仰ぎ、贖いを感謝し、日々新しい命によって日々主イエスに仕えていく者でありましょう。


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