阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年3月5日
「キリストを基として」エフェソ4章25−5章5節

 神が私たちに最も大切な事として教えておられることは、全存在をかけて神を愛し、隣人を愛するという事です。兄弟姉妹を愛することなしに、神を愛することはできません。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(Tヨハネ4:20−21)主イエスを信じ、罪赦された者は、この神の掟によって歩む者に変えられました。神の掟と訳されている言葉は、命令という意味があります。神の命令です。
主イエスによって罪赦された者は、新しい命に生きる者とされました。新生したという表現をします。キリストの命に生かされたのです。ですから、もう罪の中にいることはできません。聖霊が悲しまれるような生活はできないのです。このことについて、「古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく聖い生活をおくるように」という勧めがされています。
まず、言葉についての教えがあります。「真実を語る」、(4:25)「悪い言葉を一切口にしてはいけない」、(4:29)「みだらなことや、いろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なこと、卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談」(5:3,4)もふさわしくないとあります。悪い言葉とは、人を汚すような悪意ある言葉の事です。人を悪に唆すような恐ろしい効果のある言葉です。
また、「一切の悪意を捨てる」(4:31)とあります。悪意と一緒に無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどを捨てるようにともあります。ここに人の罪の姿が浮かんできます。人は皆このようなものを心にもって生きてきたのです。罪の心です。
行いにおいてもさまざまに教えています。怒りについて教えています。いつまでも怒りをもったままでいると、悪魔に機会を与えることになるとあります。聖書の時代の一日は夕暮れから始まります。ですから、その前に、その日のうちに解決しなさいという意味があります。また、エフェソの教会には窃盗の前歴がある人もいたようです。今後一切盗んではいけない。勤勉に働くようにと示されました。自分の為だけではなく、困っている人を助けるようにとあるのです。
新しく生まれ変わった人は、偽りを捨てて、真実を語る人とされます。人を汚す言葉ではなく、聞く人に恵みが与えられるように、その人が霊的な成長を遂げていくような、言葉を語るようにされます。聞く人の祝福となる言葉を語るのです。
神が求められることは、「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4:32)と、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に捧げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(5:1,2)という言葉に表されています。
主イエスは、私たちに対する愛のゆえに十字架に架かられて犠牲を払われたのです。神の子とされ、神に愛されている者は、愛によって歩むこと、互いに赦し合う事、それも快く許すことと、尊敬し合い、互いの存在を喜び合う生き方が示されています。
また、罪赦された者は、「聖なる者」(5:3)と呼ばれます。
これは、神がご自分の子として聖別されたという意味があります。
Tペトロ2章5節には、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげなさい」とあります。
聖なる者、聖なる祭司とされたとあるのです。罪深い、汚れた、神と何のかかわりもなかった者が十字架で贖われて新しく生まれ変わり、聖なる者、神の子、聖なる祭司とされたのです。
祭司とは、言うまでもなく神に犠牲をささげる人です。旧約時代はそのささげものは動物でしたが、今は霊のささげものだとあります。それは、すべての行いが神へのささげものであるということなのです。すべては神の栄光のためであって、仕事も家庭も神の栄光のためであるなら、すべてに意味を見出すことができるのです。
つまらない仕事など何一つありません。すべてに意味があり、神の栄光を表すことができるのです。家庭では家族に仕えることで神の栄光を表すことができるのです。
また、ローマ書12章1節には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とあります。
神が最も願っておられるのは、私たち、贖われた者の神に対する愛と、生活のなかでの愛の生き方なのです。自分自身をささげていく生き方に神の栄光は表されるのです。
神は感謝をささげることを教えてくださいます。クリスチャンにふさわしくない言葉を捨て、それよりも感謝を表しなさいとあります。(エフェソ5:4)
聖なる者とされた者の性質の一つに感謝することがあります。救いの感謝がいつもあります。滅びの道から命の道に導かれて、永遠の命の中に生かされていることの感謝があります。日々の恵みの感謝、すべてに感謝する者になりました。
偶像礼拝というのは、人が造った神ならぬ神を拝むことだけではありません。自分の腹を神とすることであって、
(フィリピ3:19)自分の肉の欲、罪に仕えていくことなのです。
貪欲は偶像礼拝なのです。偶像礼拝者は神の国を受け継ぐことはないのです。
神が喜ばれないような生活であるなら、聖霊が悲しまれます。しかし、日々、神に従い愛に行きたいと願うなら、聖霊は助けてくださるのです。聖なる者として何がふさわしい事なのかを聞くときに、聖霊は教えてくださいます。それと同時に常に力を与えてくださるのです。聖霊によって、日々キリストにふさわしい者として調えられていくことを聖化といいます。
神に倣う者(5:1)であり、神を模範にして成長しなさいと勧められています。
愛によって歩む者の心の内には、主イエスが住んでおられます。
主イエスの愛の思いが自分の思いであるように、主イエスの許しが自分の許しであるように、日々主の思いで満たされるように祈る者となりましょう。
 主イエスを受け入れた者は、キリストに結ばれ、キリストに深く根を下ろした者です。(コロサイ2:7)キリストの命によって生かされて、ますますキリストに繋がり、信仰によって聖なる者としてふさわしく生きることができるのです。聖霊は常に助けて励まし、導き続けてくださいます。
私達一人一人を通して、公然と神が褒め称えられますように、神の栄光が常に表されますように願い祈り、求めていきましょう。


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