阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年3月19日
「真の幸い」
マタイ5章3−4節

 主イエスは、山に登られて、大切な教えを語り始められました。
「山上の教え」と呼ばれる教えです。
 その教えの最初に、8つの幸いを教えてくださいました。
「心の貧しい人々は、幸いである」「悲しむ人々は、幸いである」「柔和な人々は、幸いである」「義に飢え渇く人々は、幸いである」「憐み深い人々は、幸いである」「心の清い人々は、幸いである」「平和を実現する人々は、幸いである」「義のために迫害される人々は、幸いである」と、語られました。
 このように訳されているのですが、この原文は、感嘆文であらわされていて、主イエスは、「ああ、さいわいだ、心の貧しい人々!」と、このように語られたと考える事ができます。
心の貧しい人の幸いは、「天の国はその人たちのもの」(マタイ5:3)だからとあります。
貧しさとは、あまり歓迎できない事実ともとらえることができます。人は、物質的な貧しさで押しつぶされてしまうことがあるからです。また、貧しさのために心が折れてしまうこともあるかもしれません。
主イエスは、「心の貧しい人々は、幸いである」と言われました。人は生活のために働かなければなりません。自分の必要のためには自分で働くという生活を送る人が大多数ではないかと思います。富んではいないが、極貧でもないという人々です。しかし、主の言われた貧しいとは、極度の、惨めな貧困を表す言葉でした。人を屈ませ、心を圧迫し、うずくまらせる、何一つ持たない事を表す言葉なのです。主は、極度の貧しさの中にいる人は幸いと言われました。
これは、力も、名誉も権力もないという意味なのですが、物質的な貧しさではなく、「この世から完全に見放されて、すべての希望を神にかける人」を意味しています。
使徒パウロは、激しい迫害にあって死ぬような思いをし、「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(Uコリント1:8,9)と告白しました。そのように、心の貧しい人々とは、神以外に頼れるお方はいないと、どん底にあって仰ぎ望む心をあらわしているのです。
自分には何の力もないと、ただひたすら神に依り頼む者は幸いなのです。そのような人は、世と世に属するものはすべて過ぎ去り行くものであって、富や権力もはかないものと悟る者になります。
そして、真の神を信じ、その御声に従う者であるからです。神の国とは、神の御支配を表します。信じる事と従う者に神の国は実現
します。
 二番目に「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)とあります。
これも、「ああ、さいわいだ。悲しむ人々は!」となるのです。この悲しみは、愛する者を失って悲しみ、心を痛め、涙を抑えきれないほどの悲しみを表します。
 主イエスに従い、祝福を受ける者は、絶えず悔い改めに導かれる者です。しかし、自分の罪に気が付き、その罪を悲しむことなくして悔い改めはできません。罪に対して大きな悲しみを持って悔い改めているだろうか。自分を探らなくてはならないのです。罪と取り組み、自分の惨めさをパウロは知っていました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)と、悲痛な声をあげました。しかし、答えはすでに与えられていたのです。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマ8:1、2)罪を最大の悲しみとして、主の十字架の前に跪く(ひざまずく)者は、直ちに罪から解放されるのです。悲しみをもって悔い改める者は、深い神の慰めに預かる者とされるのです。
さらに、「柔和な人々は、幸いです。その人たちは地を受け継ぐ。」とあります。(マタイ5:5)柔和とは、優れた徳と考える事ができます。モーセは地上の誰よりも柔和であったとあります。(民数記12:3)この柔和は、謙遜とも訳される言葉です。モーセは、異邦の女性を妻としていましたが、それを、兄姉のアロンと、ミリアムに非難されました。しかし、モーセは怒ることなく主に委ねたのです。柔和とは、自分が非難されても怒らずに主に委ねることができるということなのです。このことでミリアムは重い皮膚病になりましたが、モーセは「神よ、どうか彼女をいやして下さい」(民数記12:14)と叫んだとあるのです。ミリアムは癒されました。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:28)とある通りのことをモーセはしたのです。
さまざまなことがあっても、心には主の平安があって、揺れ動かない恵みに生きることができる人は、なんと幸いかと教えられています。地を受け継ぐとは、神の豊かな祝福の中に生かされるという事です。柔和さと謙遜こそが祝福と考える事ができるのです。
この三つの教えに共通していることは、謙遜ということではないでしょうか。人はとかく高慢になりやすく、侮辱されれば侮辱でかえすような心をもっています。しかし、それでは何も解決しません。心は休まらないのです。
また、さまざまな試練の中で意気消沈してしまうことも多くあるのではないでしょうか。自分の悲しみに耐えられないようなことがあるかもしれません。自分の無力さを嘆くことがあるかもしれません。そのような者たちに、主イエスは、「ああ、あなたがたは幸いだ。」と言われるのです。なぜなら神の力を知り、祝福を受け、慰められるからだと励まして下さり、この地上で神の祝福を豊かに受けながら生きると約束されているのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイ11:28−30)
主イエスは、柔和で謙遜な方です。主の軛を負うとは、主にいつも、どんな時も従い続ける、主と共に歩み続けるということです。
主が教えてくださった御言葉は、主イエスの品性を持つという事に繋がります。私に学びなさいと語り掛けてくださる御言葉をしっかりと心にとどめ、「ああ、あなたはなんと幸いな者だ」と、語り掛けてくださる主イエスに従っていきましょう。
この地を受け継ぐ者、永遠の命に生かされる者として、豊かな祝福に預かる者でありたいと祈りましょう。


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