阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年3月26日
「神の子の幸い」
マタイ5章6−9節

  先週に引き続き、主イエスが山上の教えの最初に教えられた幸いについて、御言葉を待ち望みたいと思います。
主イエスは、義に飢え渇く人々、憐み深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々は、幸いであると教えられました。
義に飢え渇く人々とは、神の完全な正しさに飢え渇く人のことです。現代の生活の中で、食べ物がなくて飢えるということはあまりありません。生活が貧しくて、食物にも困るのであれば、条件はあっても、公的な支援を求めることができます。国は、国民が生活に困れば、健康的、文化的な生活を最低限送れるように支援する義務があるのです。現代は、切実な飢えを体験することはないかもしれません。
 「義のために飢え渇く」とは、食物も水もなくて、飢えて死ぬかもしれない人々が、切実に食物や水を求めるように、義を求めているか、という主イエスの問いかけでもあります。
 クリスチャンとしての生活の中で、神の義、神の御心を徹底的に求め続けていくことを教えておられるのです。飢え渇きを知っている者は、満たされることを知るのです。
「憐み深い人々は幸いです」と、主は言われました。これは、意思をもって人に同情し、許すという事に繋がります。
聖書は、一貫して、許さないなら許されないというように教えています。ペトロは、主イエスに、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイ18:21)と問いました。ペトロは7回も許せば十分という答えを期待していました。しかし主は、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも許しなさい。(マタイ18:22)とお答えになりました。これは、無限に許しなさいという意味です。そしてすぐに王の決済のたとえ話をなさいました。
王様が家来に貸したお金の決済をしました。1万タラントの借金がある家来が連れてこられました。返済できなかったので、王様は持ち物や、妻も子も全部売って返済するように命じました。1タラントは、6千デナリに相当します。ですから、6千億円にもなる莫(ばく)大(だい)な借金です。家来は王様にひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。すると王様は憐れに思って、彼の借金を帳消しにしてくれました。6千億円が帳消しになったのです。なんと憐み深い王様でしょうか。ところが、彼が許されて外に出たときに、自分に100デナリの借金をしている友人に会いました。すると、つかまえて首をしめて「借金を返せ」と迫ったのです。この友人は、ひれふして「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼みました。しかし、彼は承知せずに、この友人を、借金を返すまで牢屋に入れてしまいました。100デナリは一日の日当を1万円として、100万円の計算になります。別の友人がこれを見て大変心を痛めました。そして、王様にこのことを知らせたのです。そうすると王様は、この人を呼んで、叱責しました。王様は、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言って、借金を全部返済するまで牢の役人に引き渡しました。
主イエスは、このたとえ話の結論として、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(マタイ18:35)と示されました。
また、ヤコブ2章13節には、「人に憐みをかけない者には、憐みのない裁きが下されます。憐みは裁きに打ち勝つのです」とあります。憐み深い者は裁きに勝利する者なのです。
人は、罪という返しきれない負債を持つ者です。しかし、主イエスは十字架でその負債を帳消しにしてくださいました。ですから、私たちも互いに許し合うべきなのです。それは、固い意志をもって許すということです。主は限りなく許して下さるお方なのです。
「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち返れ、わたしはあなたを贖った」(イザヤ44:22)と常に語り掛けてくださるのです。
「ああ、幸いだ。憐み深い人々は」と語られる主イエスは、「その人たちは憐みを受ける」と言われました。主の限りない憐みと許しの中に生きる者は幸いなのです。
主は、「心の清い人々」について、「その人たちは神を見る」と言われました。この清いという意味は、混ざりものがなく、純粋であるという意味があります。世の中には立派な行いであっても、その動機が純粋ではないということがあります。
有名なTコリント13章には、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
(Tコリント13:2,3)とあります。どんなにすばらしい賜物を持っていても、献身的な行いがあっても、その動機が神の愛、アガペーによるものでないのなら、空しいのです。私たちは、生活と信仰の行いの動機が、神の愛であることをひたすら求めていかなければなりません。そして、神の愛が心に満たされるように常に祈り、行いの動機が肉の思いではなく、自分の満足のためではなく、主イエスに対する純粋な混じりけのない信仰によるものであるという、心を持つ者でありたいのです。そのような者は神を見る、常に共におられる神の臨在の中に生きることができるのです。
さらに、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と示して下さいました。これは、平和を築きあげていく人は、神の働きをするのだという意味があります。
人が主イエス・キリストを心に受け入れた時に起こる変化は、心の平安ではないでしょうか。心に神の平安があるなら、平和を造り上げていく人に変えられます。人と人との不和を執り成し、対立を解消するような人のことなのです。
イエス・キリストの働きは、人を神と和解させたことです。罪のために神の栄光を受けられなくなっていた人を十字架の贖いによって和解させてくださいました。イエス・キリストが神と人との間に平和をもたらしたように、争いの絶えない人々の中にあって、和解の働きに用いられ、平和を造り出すことができるのは、クリスチャン、すなわち神の子なのです。
人が救い主イエス・キリストを信じるなら、神と人とに仕え、神の御心を実現する人として用いられます。それは、この世のどんなことにも勝る素晴らしい幸いで、心からの喜びをもって、険しいこの世の歩みを、賛美をもって歩み通すことができるのです。
神の子とされている幸いを感謝し、主を褒め称えましょう。


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