阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年4月16日
イースター礼拝会
「復活の主」
ヨハネ20章19−21節

 主が全世界の罪の贖いとして十字架に架かって死なれ、三日目に甦られた事を記念するのがイースターです。復活祭といいます。
主イエスが、私たちすべての者の罪のため十字架で死なれた事、死から復活されて、今生きておられる救い主であることをいつも心に留め、信仰の決心を新たにすることがイースターの心です。
 人は、華やかな事や、楽しい事に心を向けてしまいがちです。世の中では、イースターを美しい卵を売り出したり、春のイベントとして宣伝したりしていますが、教会はそれに流されるようなことがあってはなりません。
イースターは主が復活された素晴らしい時ですが、その前に十字架があったことを忘れてはならないのです。罪を悔い改め、信仰によって日々歩むという新しい決心の時としたいものです。
 主イエスの復活の朝の次第は福音書に記されています。マグダラのマリアが朝早く墓に行くと、墓の入口の石は取り除かれていて、主の遺体はありませんでした。マリアは、弟子のペトロとヨハネにこの事を告げたので、二人は走って墓に行きましたが、主を包んでいた亜麻布が残されていたのを見るばかりでした。弟子たちが家に帰った後もマリアは墓の外に残っていたのですが、墓の中に天使を認めました。マリアは「主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません」と言いました。主イエスは死なれたのですから、取り去られたとか、どこに置かれているのかとか言ったのです。しかし、マリアは復活の主にお会いすることができました。後ろに主イエスがおられたのですが、最初は主であるとわからずに、墓の番人だと思って、イエスの遺体を引き取りたいと願ったのです。主イエスが、「マリア」と呼ばれた時に、この方が生きておられる主イエスであるとわかりました。主イエスは、マリアに、父なる神の御許に昇られることを、弟子たちに伝えるようにと語られました。
 マリアは弟子のところに行き、「わたしは主を見ました」と告げ、主が言われた事を伝えたのです。
ルカによる福音書によると、婦人たちによって主イエスの復活が弟子たちに知らされると、弟子たちは、「たわ言」のようにしか思えなかったとあります。たわ言とは、ばかばかしい話で、取り上げるまでもないような話のことです。弟子たちは、婦人たちが伝えた主イエスの復活をたわ言としか思えませんでした。主はご自分が苦しみを受けて死なれ、三日目に復活される事を弟子たちに何度も話されていたのですが、思い起こすことができませんでした。
主が復活された日曜日の夕方、弟子たちは自分たちのいる家に鍵をかけて集まっていました。主イエスが捕らえられて処刑されたように、自分たちも捕まるのではないかと恐れたのです。
弟子たちの心にあったのは、悲しみと失望と恐れでした。主イエスは殺されてしまい、自分たちはこれからどのようになっていくのかわからない。どうすればよいのかもわかりませんでした。ペトロたち漁師出身の者は、ガリラヤ湖で漁をして生きてかなければなりません。
しかし、主イエスは甦られました。弟子たちのところに来られて、真ん中に立たれました。「あなたがたに平和があるように」と言われて、手とわき腹を見せて下さり、その傷によって主イエスであると、証ししてくださいました。そして、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と宣言されたのです。
聖霊を受けよと言われ、罪を赦すという大切なことを教えてくださいました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23)と言われました。
復活の主が弟子たちに示されたことは、「遣わす」という事と、「赦す」という事でした。
主イエスの地上の働きの目的は、だれでも信じる者が罪赦され、永遠の命を得るためでした。その主イエスの働きは弟子たちによって継続されることになります。ですから、私達も聖霊を受け、遣わされて主イエスを伝えるのです。
私たちが主イエスを信じることができたのは、ここから始まります。時代を超え、数え切れない人々が遣わされて福音を語ったからです。宣教師として用いられた人々もいました。一人のクリスチャンが隣の人に、友人に、家族に伝えました。地域に、家庭に、職場に遣わされて伝えたのです。
その結果、今、わたしたちがあるのです。私たちからまた、新しい働きと救いがもたらされます。
 また、主の福音は、「和解の福音」であり、「赦しの福音」です。主イエスが下さるものは、「平和、平安」であり、「命」であり、「限りない許し」です。
主イエスを信じた時にいただくことのできる平安は、世のものとは違います。さまざまな条件によって得られたり、失われたりするような平安ではなく、誰も取り去ることのできない命の平安です。
どのような問題の中にあっても、すでに主イエスが解決してくださっているという安心があるのです。
また、人にとって大きな問題である、命についても、生きていても召されても、永遠の命に生かされているという平安があります。    明日の事は心配するなと言われる主イエスの御言葉によって一日を終わることができることは、何と幸いな事でしょう。天の国に生きる者とされた喜びが今日生きる力なのです。
そのように生きる者に、主イエスは、福音は赦しの福音であると教えてくださいました。聖書は、「赦す」ということについて、しっかりと教えています。主イエスは、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37−37)と教えてくださいました。罪赦された者は赦さないでおくことはできないのです。
ヨハネ20章23節の御言葉は、赦される側ではなく、赦す側の大切さを示されています。赦された者は赦す者なのです。
使徒言行録の中にステファノの殉教の様子が記されています。神を冒涜したという偽証によって捕らえられて殉教します。彼は、旧約聖書から始めて、メシアである主イエスを証しし、殉教したのです。最後に彼は恨み言をいうのではなく、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と、大声で叫んだとあります。主イエスは、今日改めて私たちに、永遠の命を喜ぶこと、主イエスを伝える事、赦すことを教えてくださいました。これこそ主の御心であることをしっかりと心に留めて、生きておられ、常に共に歩んでくださる主に従い、信仰の道、永遠の命の道をしっかりと歩んでいきましょう。


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