阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年4月23日
大きな喜び
マタイ5章10−12節

  主イエスは山上の教えの最初に幸いな人々について教えてくださいました。8番目の幸いについて、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:10)と教えてくださいました。迫害とは、権力者が権力をもって、邪魔な存在を様々な手段によって排除するという事です。
20世紀にはナチスによってユダヤ人が、ユダヤ人であるという理由で迫害され、財産を没収され、収容所に送られて、600万人が殺されたという事実があります。
日本では、1587年、それまでキリスト教に好意的であった秀吉が突然キリシタン宣教師追放令を出します。当初はそれほど激しい迫害はしなかったのですが、1596年にはフランシスコ会の宣教師や信者26人を逮捕して長崎に送り、十字架刑に処しました。有名な26聖人の殉教です。
家康、家光と、時の権力者が変わっても、迫害はますます厳しくなり、日本の各地で多くの人々が殉教しました。1639年には鎖国令が出されて外国との交渉は出島以外ではできなくなります。
1859年に、神奈川、長崎、函館が開港されるまで、鎖国は220年にも及びました。明治になって、1870年(明治3年)頃には、プロテスタントの宣教団が宣教体制を整えました。ところが、まだ日本はキリシタン禁止令を廃止していませんでした。明治政府もキリシタンを迫害しました。長崎周辺で1858年から1870年にかけて大迫害が起こり、これは、「浦上くずれ」と呼ばれました。くずれとは、逮捕することです。津和野のおとめ峠の迫害もこの時のものです。そのように悲惨な苦しみの中にあっても、多くのキリシタンは屈することがありませんでした。
1871年(明治4年)に、不平等条約の改正のためにアメリカやヨーロッパに渡った岩倉具視の一行は、行く先々でキリスト教徒迫害の抗議と非難をあびました。肝心な条約改正の交渉は進捗(しんちょく)することがありませんでした。一行はこのことに驚き、キリスト教徒を釈放し、信教の自由を認めるべきと、政府に提案したのです。
明治政府は、1873年(明治6年)キリシタン禁制の高札を撤去することになったのです。その後も1933年には、軍部や軍人たちによって、カトリック、プロテスタントを問わず焼き討ちなどの迫害が始まり、明治以前のような状況に追い込まれてしまいました。第二次世界大戦が終わるまで、神社参拝を強制されたり、投獄されたりと、受難の時代が続きました。投獄中に獄死する人々もあったのです。
 戦後に信仰を持った者にはわからないような大変な迫害の時代をくぐって、多くの信仰の先輩たちによって信仰が守られ、伝えられてきたことを忘れてはなりません。
どんなに厳しい時代でも信仰は受け継がれてきました。
主イエスは、「義のために迫害される人々は、幸いである」と教えてくださいました。主イエスのために、神の御言葉のために迫害される者は、幸いと教えておられます。なぜなら、天の国はその人たちのものだからです。
主イエスは、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と、教えておられます。「義のために迫害される者」とは、「わたしのために」迫害される者たちだと言われています。
使徒パウロは、クリスチャンたちを迫害するためにダマスコへ出かけて行く途上で、復活の主イエスにお会いしました。その時、主は、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)と言われたのです。クリスチャンを迫害するということは、主イエスを迫害することなのです。
今、主イエスを信じても、先の時代の人々のような命に係わる迫害はないかもしれません。しかし、主イエスを中心に生きようとするなら、周囲の人々から悪く言われたり、誤解されるようなことが今もあるのではないでしょうか。クリスチャンは日曜日を主の日として大切に守り、礼拝します。それは、ノンクリスチャンの人々にはない事です。神社や寺にお参りしたい時に、参ればよいのですから、几帳面に日曜日ごとに教会に行くクリスチャンをおかしな人と思うかもしれません。そもそもクリスチャンとは、シリアのアンテオケで呼ばれるようになったのですが、主イエスはキリストであり、主の十字架の贖いの死と復活を信じている、変わった人々というからかいの意味を持つ言葉でした。
主イエスを信じているからという理由で、悪く言われたり、押しのけられたりすることがあるかもしれません。主イエスは、それは幸いな事であり、喜びなさい、大いに喜びなさいと言われました。天の大きな報いがあると言われるのです。天の父の御支配の中に大きな報いがあることを信じるのです。
人は、この世において良い報いを得たいと思うことがあります。
もし、この世がすべてであるなら、それを願うのが賢い生き方になるかもしれません。しかし、この世は過ぎ去っていくのです。世も世にあるものも過ぎ去ります。空しいものなのです。財産も名誉も地位も永遠のものではありません。主イエスの永遠の報いこそがすべてなのです。
 私たちは天に目を向けるべきです。天とは神の御支配されるところです。神の臨在の中に生かされる事以上の祝福はありません。
主は、「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と言われました。主イエスは、ののしられ、たたかれ、つばをかけられて十字架に向かわれました。この方こそ、私たちが従うべきお方なのです。
 十字架に架かられ、三日目に復活された救い主イエスに心を向けて、この方が歩まれたように、歩み続ける事、それが天の国にある者の生き方であることを、心に留めましょう。
 ペトロの手紙は、多くの地方に離散しているクリスチャンに書かれた手紙です。「もし、良いことに熱心であるなら、だれがあなた方に害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの良い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じるようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(Tペトロ3:13−17)とあります。クリスチャンの天に報いを望む生き方は、反対する者の心にも変化をもたらすものであることを確信しましょう。
天の国に生きる者としての確実な歩みを進めていきましょう。 


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