阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年4月30日
詩と賛美と霊の歌によって
エフェソ5章19−20節

 エフェソ信徒への手紙は、イエス・キリストを信じた人々がどのように生きていくべきかを教えている素晴らしい手紙です。パウロがローマの獄中で記した手紙の一つです。
教会とは、キリストの御体であって、神を礼拝するところです。
教会には、いろいろな集会があり、特別に企画された集いもありますが、もし礼拝をしていないならば教会とはいえないのです。
 礼拝を重んじて、心から主を崇め、自分を神に喜ばれる生きた聖なる供え物とするという事に心を留めていきたいと思います。
さて、「詩編と賛歌と霊的な歌によって、語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5:19)と勧められています。
詩編とは文字通り詩編です。賛歌とは、神様に対する賛美の歌です。霊的な歌とは、信仰が溢れて沸き上がる賛美です。明確には区別しがたいのですが、これらの賛美によって語り合うという事に注目しましょう。
礼拝は、自分自身をささげる事であり、また、神との交わりです。神が語られる、そして、私たちは応答するのが礼拝です。カトリックでは、司祭が、聖書朗読の後、「これは主の言葉です」と宣言します。すると、会衆は「アーメン」と応答します。「神があなた方を祝福されますように」と祝祷すると、「司祭さまのうえにも祝福がありますように」と応答するのです。これは声に出して目に見える形での言葉の応答です。私たちは礼拝でそのように決まった形の応答はしませんが、神からの呼びかけに対して、また、御言葉に対してアーメンと応答していくことが、「互いに語り合う」という事になるのです。そのような賛美の前提は、「霊に満たされる」という事です。
賛美は、主に向かってなされるものです。メッセージソングや信仰の証しの内容の歌も賛美と呼ばれるのですが、正確には賛美ではありません。神を神とし、神を崇め、褒め称える歌が賛美なのです。
「わたし」の事を歌う歌ではなく、「神への」賛美こそが賛美であることを覚えたいと思います。「主に向かって歌う」とは、主に心から愛と信仰をささげるということです。これは大切な基本です。
これを忘れると、歌う楽しさや、自分の心の満足になってしまう恐れがあります。それは賛美でありえないのです。歌を楽しむのではなく、また、人に聞かせるのではなく、賛美によって神の言葉を宣言し、信仰を告白していくべきものなのです。
賛美は、「心から」ささげます。それは、聖霊に満たされるということと密接に関係します。主イエスを心に受け入れる時、聖霊は心に宿って下さいます。罪を示し、悔い改めに導き、永遠の命の喜びに満たして下さる方です。救いの喜びに満たされる時、心から主への賛美が溢れてくるのです。主を褒め称えずにはいられないのです。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ」(エフェソ5:18)とあって、続いて賛美について教えているところからも理解できるのではないでしょうか。そして、真の礼拝者、賛美者は、いつも、あらゆることについて、主イエスによって父なる神に感謝する者であることを確認したいと思います。日々、御言葉を宣言し、聖霊によって礼拝と賛美をささげ、感謝する者である、それが世に打ち勝つ者なのです。


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