阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年5月7日
新しい人にされて
エフェソ4章23−24節

  エフェソ人への手紙は、ローマの獄中にあったパウロが、エフェソの教会に宛てて記した手紙です。使徒言行録20章には、三回目の伝道旅行の帰途、ミレトスにエフェソの教会の長老たちを招き、
教会を堅持するようにと励ましました。パウロは、もう二度と会うことができないことが分かっていて、最後の言葉と別れを告げて、共にひざまずいて祈りました。エフェソの手紙はこの時から5年後くらい後に記されたと言われています。
 エフェソの手紙は、イエス・キリストを信じた者がどのように歩むべきかが丁寧に教えている手紙です。
 当時のエフェソは、アルテミス信仰が盛んでした。壮麗なアルテミス神殿があり、人々は豊穣(ほうじょう)の女神であるアルテミスを信仰していたのです。パウロは、エフェソで2年間伝道し、多くの人々が主を信じました。パウロが、「人が手でつくったものは神ではない」と教えたので、神殿の銀の模型を作って利益を得ていた銀細工人が騒ぎを起こして、町中が混乱したという出来事が使徒19章にあります。偶像で利益を得ていた者たちが騒ぎを起こしたのです。
そのような中、教会が建て上げられて行きました。パウロは、その教会に手紙を書いてクリスチャンの歩み方について、くわしく教えたのです。
 主イエスを信じた者は、肉によるかつての歩み方、「情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」(エフェソ4:22)るようにと、教えました。また、「異邦人と同じように歩んではならない」(エフェソ4:17)とも教えています。
異邦人の特徴は、自分の肉の思いの満足にあります。罪が分からず、心が固くなってしまい、救いから遠ざかってしまいました。罪の中に居続けると、次第に感覚がなくなってしまい、そのうち、罪に対する恥もなくなり、無感覚になってしまう人間の姿を現しています。罪に支配されてしまうという事は、人のあるべき姿さえも忘れてしまう恐ろしいことなのです。
 パウロは、古い人を脱ぎ捨てるようにと、勧めています。脱ぐという行為は、意思によります。服を脱ぎたくないと思えばそのままです。この服を脱ぐ必要があると思う時、そのようにできるのです。古い肉の性質は、滅びに向かいます。
 人がなすべきことは、「心の底から新たにされる」という経験です。これは、主イエスを信じて、新しく造り変えられる事を意味します。主は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われました。
 主イエスを信じて、神の子とされるという経験から、新しい人生が始まります。これは、決して難しいことではなく、主は私の救い主であること、十字架で死なれ、三日目に甦られた事を心に信じ、告白する時、人は誰でも新しくされるのです。新しく生まれるのに、何の修行も努力も必要ではありません。信仰により、恵みにより救われるのです。大切なのは、そのために、主イエスが十字架に架かられて、罪の贖いを完全に成し遂げてくださった事を片時も忘れない事です。
 この時に新しくされたはずなのに、なぜ、このような勧めがなされるのでしょうか。それは、人が相変わらず罪深いからです。注意しないと後戻りしてしまうような弱さを持つからです。
 かつて罪の生活をしていた人が、救われて、喜びの生活に入ったのに、ある時からまた、罪に引きずられてしまうという誘惑は常にあるのです。人は、自分を楽しませることや、自分が栄誉を受けること、利益になること、そのようなことに心を惹かれるものです。
 自分はすでに神にかたどられ、新しく造られた者であることを常に自覚して生活する必要があります。
 箴言は知恵の書です。教訓が語られています。一章から、誘惑に惑わされ、放縦な道を行く者の危険が教えられています。
罪の誘いに乗り、その道を行く者は、滅びにつながるのです。「自分を見て賢いと思ってはならない。主を恐れて、悪を離れよ。」(箴言3:7)とあります。
 私たちは、神にかたどって造られた新しい人であるはずです。
御言葉によって生き、神の目に正しいと覚えられる生活をすることができるはずです。自分を楽しませたり、喜ばせるより、神に喜んでいただけることが、喜びとなるのです。
 エフェソの手紙と、コロサイの信徒への手紙は、パウロが同じ時期に書いた手紙で、内容も大変よく似ています。コロサイの2章には、「なぜ、まだ世に属しているかのように」(コロサイ2:20)生きるのかとあります。この世的なものとは、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」であって、これらを捨て去りなさいとあって、古い人を脱ぎ捨てる事と共通する教えです。さらに、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とも続けられています。そして、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に到達する」(コロサイ3:9−10)ことが記されています。新しく造り変えられた人は、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(コロサイ3:12)を身に着ける事と、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3:13、14)とあります。
 神の聖霊を悲しませるのではなく、御心に生きる者として、聖霊が喜ばれる生き方を求め続けなければなりません。
エフェソ4章32節にも、「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4:32)とあります。
 神の子の証しは、これらの御言葉のように生きていくことであると教えています。
 私たちの心の目は、どこに向けられているでしょうか。聖書は、「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。・・・あなたがたの命である、キリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(コロサイ3:1−4)と教えています。
 神の右におられる勝利の主を仰ぎ望み、主イエスの栄光にあずかる者であることを常に心に留める者は、この世にあって、新しく生まれた者として、日々主の栄光の中に生かさているのです。
 服を脱いだり、着たりするのは、自分の意思によります。新しい人を日々纏うものでありたいのです。それは、常にキリストに従っていくという決心の連続なのです。
 キリストに従う時、聖霊は必ず全てを祝福し、聖め、力と喜びに満たして下さいます。


 ページのトップへ
  
2017年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ