阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年5月21日
賛美の力
詩編34編2−8節

  人は神の形に造られたものです。神の息を吹き込まれ、神の命に生かされています。神との交わりの中に生かされるものなのです。
神は、アダムとイブから始まった罪のために、神と断絶していた者を、イエス・キリストの十字架の贖いによって和解させてくださり、
イエスを救い主として心に受け入れた者は、キリストの永遠の命に生かしてくださいました。
イエスを主と信じた者は、以前と違う生き方に導かれます。主を知らなかった時には賛美の歌を歌うことはなかったと思います。それが、賛美する者に変えられたのです。
今日は、詩編34編を読みましたが、作者であるダビデは、2節で「どのようなときも、わたしは主をたたえわたしの口は絶えることなく賛美をうたう」(詩編34:2)と主を崇めました。
この詩編は、表題の1節にあるように、ダビデがその生涯の中でも本当に苦しかった時に歌った賛美なのです。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放された時に歌った歌とあります。これは、サムエル記上21章にある出来事です。実際には、ガトの王、アキシュの前での出来事でした。ダビデは、サウル王に命を狙われて、逃亡の旅を続けていました。ノブの祭司アビメレクの元に生き、神殿の供えのパンをもらって飢えを満たさなければならないような状態でした。その後、ペリシテ人である、ガトの王アキシュの元に逃れたのですが、アキシュの家来がダビデであると見抜いたので、ダビデは狂気のふりをしなければなりませんでした。アキシュに馬鹿にされて追い出されたので、難を逃れることができました。ダビデの心の中には苦しい思いがあったでしょう。ダビデはイスラエルの2代目の王になるまで、このような苦難が続きました。しかし、苦難の中にあっても、賛美の声を上げ続けたのです。
賛美は勝利の秘訣です。
どのような環境の中でも賛美する。絶えず賛美する。それは、魂から溢れ流れ出る賛美です。
人は、順風満帆の時には、歌もでてくるでしょう。しかし、逆境の時にはどうでしょうか。つぶやきがでるのではないでしょうか。
ダビデは、良くても悪くても、どんな時も絶えず神を賛美したのです。
賛美は信仰の告白でもあります。祈りでもあります。34編5節には、「わたしは主に求め、主はわたしに答えてくださった。脅か(おびや)す者から常に救い出してくださった。」と告白しています。賛美し、祈る時に、神が答えて下さらなかったことはないのです。自分を苦しめる者たち、命を狙う者たちから「常に」救い出されたという体験の連続だったのです。また、7節でも、主は呼び求める者の声を聞いて下さり、苦難から常に救ってくださったとあるのです。主は常に救って、助けてくださるお方なのです。
「主を仰ぎ見る人は光と輝き辱めに顔を伏せることはない。」(:6)「主の使いはその周りに陣を敷き主を恐れる人を守り助けてくださった」(:8)常に真の神を信じ、主に期待し、仰ぐ者は、光と輝く者とされて、決してその守りの御手から漏れることはない事が約束されています。
アキシュの元から逃れたダビデですが、その後もサウル王は執拗にダビデを追跡します。しかし、その中にあっても、サウルの息子ヨナタンは、ダビデの元を訪れ、「神に頼ること」そして、「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのは、あなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている。」(サムエル上23:17)と励ましたのです。ダビデはマオンの荒れ野にいたのですが、サウルが追跡してきました。なんとかサウルの兵を引き離そうとするのですが、包囲網が狭まってきたのです。そのときに、国にペリシテ軍が侵入したという知らせが入って、サウル王は兵を引かなければなりませんでした。危うい所をまぬかれたのです。それでその所を「分かれの岩」と呼ばれるようになったのです。(サムエル上23:28)もうだめだという時に、神は不思議な方法でダビデを助けてくださいました。神様は全てをご存じで、その全能の御手を動かされるのです。
また、詩編56編も、表題にダビデがガドでペリシテ人に捕らえられた時とあります。「神を呼べば、敵は必ず退き神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。あなたは死からわたしの魂を救い命の光の中に神の御前を歩かせて下さいます」(詩編56:10−12、14)と神を賛美しました。
神を信頼し、神を呼ぶ時に救いが確かにある。神がわたしの味方であることをわたしが悟ると告白しています。
ローマ書8章でも「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8:31)とあります。
イエス・キリストの救いを受けた者は、神の守りの中を歩むことができるのです。
私たちは、逆境のなかでも順境の時も、絶えず神を賛美することができるのです。
賛美は信仰告白であり、祈りです。その賛美は神が聞いておられるのです。
「あなたがたの中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」(ヤコブ5:13−14)とあります。
祈りと賛美、信仰は切り離すことができません。喜びの時も苦しみの時も賛美の声は主に届いているのです。
御言葉に基づいた信仰と賛美は全能の御手を動かします。神のご計画を進めていくのです。
フィリピの獄屋の中にあったパウロとシラスは鞭うたれ、足かせをかけられながら、真夜中に賛美を捧げていました。囚人たちも賛美に聞き入っていたのです。地震があって獄屋の戸はみな開いてしまいましたが、逃げ出す者は誰もいませんでした。
体の痛みと理不尽な扱いの中で賛美がささげられていったのです。
この夜、牢屋番と家族は主イエスを信じてバプテスマを受けました。救いの御業が起こりました。
賛美には力があるのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
神をほめたたえ、常に賛美するときに、不思議な御業が起こるのです。救いの御業が起こるのです。
いつも、どんな時も心からの賛美を神にささげ、賛美と祈り、御言葉によって、生きておられる主イエスを崇めましょう。


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