阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年6月4日
ペンテコステ礼拝会
「生きる喜び」
使徒言行録1章8節 2章38−47節

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)
「ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:38−47)
 人間は喜びなくして生きる事はできません。また、人は目的を果たす事によって満足するのです。食べる事、着る事、住まう事、「衣食足りて礼節を知る」というように、生きる環境が必要なのです。
幼児は両親に支えられ育てられます。守られて成長していく。愛のない環境に育てられる時、人を思いやる心は育ちません。相手を尊敬し、謙遜に思いやる事こそ、礼儀、「礼」なのです。そして、礼を尽くす事は大切な事です。本来的に、難しく考えなくても普通親は子を愛するものです。
可愛がられて人の愛が育まれていくのです。残念な事に、昨年の児童虐待は約2万5千件あったようです。動物でも自分の子を虐待することはないのです。人間も動物なのですが、なぜこのような悲惨な事が生じるのでしょうか。それだけではなく、平和を踏みにじり、戦争に明け暮れる国々がある現実は悲しいことであります。
その根底には、真実に愛し合うという、本来人が持っているはずの愛が見失われている事にあるのです。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世1:27)のです。神は、「神は愛なり」(Tヨハネ4:8)とあるように、愛の性質を持つ者であるはずなのです。それなのに虐待や争いが絶えません。
神の愛は、聖書の言葉、ギリシャ語で「アガペー」と言います。人が本来生きる欲望を「エロス」と言います。エロスは生きるために食べる、寝る、働く、子供をもうけるといった人の基本的なあり方なのです。しかし、自分だけが生きる欲望を満たして生きる事はできません。人は、「人の間」、即ち、人間というように、愛し合って生きるのです。人が人間になるのは、愛し合う事によって生きる時なのです。神を信じないという事は、「神の愛」を見失う事です。 
 主イエス様は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言われたのです。互いに命をもって友のために犠牲になるというアガペーの愛が表され、自覚し、感謝して生きる時、真実の平和が生まれるのです。神を信じないという事は、神の愛が失われる事なのです。
様々なテロによる破壊、冷酷な独裁者の支配、国民は飢えても核を開発するような現実、地球が温暖化で滅亡することを見過ごすような為政者(いせいしゃ)、世界は終末の様相を呈しているのです。神様を見失い、アガペーが失われているのが現実です。しかし、主イエス様はアガペーを回復して新天新地を再創造されると約束されているのです。「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴(しるし)があるのですか。』イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、わたしがメシアだと言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。(マタイ24:3−14)
今、私たちは世界を見、平和な日本を見、共に生きる人々を見て福音を宣べ伝えなければならないのです。今日はペンテコステの記念日です。「使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。「イエスは言われた。『父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』」。(使徒1:6−8)
弟子たちは主イエスが復活されてもまだ主の示された十字架の真理が理解できなかったのです。主は弟子たちに聖霊を待ち望み、「新しい力」を得る時に、主の証人となり、神の愛を真実に証しできると約束されたのです。聖霊を受ける事は、主によって表された神の愛、聖霊の命に満たされる経験でした。神の愛が聖霊によって具体的に証しされる事によって「教会」が生まれたのです。
ドイツ語で教会は「ゲマイン」と言うのですが、命を分かつ愛の共同体と言う意味です。聖霊の教会には一致があり、祈りの交わりがあり、共に生きる交わりがあるのです。アガペーが宣教の力となって福音を知らない人々へ証しされるのです。聖霊に満たされるという事は、神の愛に生きる喜びを体験することであり、また、勇気と力でもあるのです。聖霊によって福音を伝える使命に全力を尽くす者として用いられるのです。ペンテコステの教会の原点に立ち、混乱と不安、争いと騒乱の世界に神の愛を伝える使命を果たしていく教会として、聖霊の力を受けましょう。主が約束されている神の国の実現のために。
主よ、来たりませ。マラナタ!


 ページのトップへ
  
2017年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ