阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年6月11日
「実を結ぶ喜び」
ヨハネによる福音書15章1−10節

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:1−10)
希望は人の生きる支えです。希望はまた、生きる目的でもあります。人は目的に向かって日々の生活を進めます。人の希望、願いには、自分に役立つものと、自分を陥れるものとがあります。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7:15)というように、自分自身では正しく物事をしようとする意志はあるのだが、よく考えてみると、物事を自分の得になるようにするといった打算が働くのです。正直に生きようとする時にも、自己中心の思いが先に立つ事が往々にしてあります。日常の中で善悪が緊張する状況は少ないかもしれません。しかし、聖書は人間の現実を「善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。」「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ7:18)「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:19、20)内なる人は神の律法を喜んでいますが、五体の内にある「罪の法則」が虜にしているのです。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ローマ7:24、25)
しかし、聖書は宣言しています。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(ローマ8:1)キリストに結ばれている人、即ち、真実の神を信じ、御子なるイエス様の御言葉に生きる人は、罪を自覚する心が与えられ、キリストの御前で反省し、悔い改めることができるのです。ルターの有名な言葉に、「われわれの主であり、師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』と言われた事によって信徒の全生涯が悔い改めである事を求められたのである」(95条1項)とあります。キリストに繋がる、即ち信じる事によって神は聖霊として内住して下さるのです。
主イエスは、主と人の関係をぶどうの木と枝になぞらえておられます。農夫は父なる神です。育ててくださる源は父なる神であり、ぶどうの木はキリスト、枝は信じる一人一人のクリスチャンです。神様との関係を端的(たんてき)に表しています。罪深く迷いやすい人間、即ち、何のために生きているかわからない、人生の目的、生きる目的を見失っている者に、その目的を明らかに示してくださるのです。真の神を信じるという事は、人生の目的を明らかにすることなのです。
ウエストミンスター大教理問答の最初に、「人間の主な、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神をまったく喜ぶことである。」とあります。「神の栄光をあらわす」事と、「神を喜ぶ」事とは、枝である主イエスに繋がり、ぶどうの木が約束する多くの実を結ぶ事を意味し、その結実をほめたたえ、神の恵みをほめたたえる事にあるのです。神の栄光をあらわす事、即ち、信じる人々の人生をご覧になって神が喜ばれる、満足される事を意味するのです。その結果は実を結ぶ事であるのです。「実を結ばないものは、父がみな取り除かれる」(ヨハネ15:2)のです。身を結ばない枝は剪定されるのです。言い換えれば、「聖別」され、キリストの贖罪によって神の御心にそぐわない罪、人を不幸にするものを削除してくださるのです。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)「結ぶ」とは、信じる事です。信じる事は、正にキリストの言葉に従うことであるのです。実を結ぶことは、「望むものをなんでも実現できる」という約束です。「つながる」という言葉は、「メノウ」という言葉で、「住み着く」という意味があります。
「わたしを強くしてくださる方(キリスト)によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13口語)と使徒パウロは告白しました。この御言葉が約束している事が確信となり、感謝と喜びにいつも満たされるのです。
次に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)神の愛にとどまる、キリストの言葉にとどまるとは、神の愛に生きることです。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)と主は言われたのです。神の言葉の真意は「神の愛」です。エロスの愛、即ち本能の愛、打算の愛ではなく、神の愛、それは、愛する者のために犠牲となる、命をささげる愛なのです。愛する者を生かすために自分が犠牲になるアガペーの愛に生きる事です。それは、苦しい事であるかもしれません。しかしその愛には真実の平安、神の平安、喜びと充足感(じゅうそくかん)が満ちるのです。神の栄光、神の素晴らしさが褒め称えられ、神の国の喜びの実が約束されるのです。豊かな実を結ぶ日々を築かねばなりません。日々の生活の充実、仕事の達成感、家族の幸せを築き上げようではありませんか。そして、一日に一人には福音を伝え、福音の実を刈り取ることを祈りましょう。そして、ぶどうの木に豊かに実をみのらせるのは、日々の「祈り」と「御言葉」に親しみ、「賛美」をささげる事です。


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