阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年6月18日
父の日礼拝会
「家族の喜び」
箴言6章20−23節

 「わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。戒めは灯(ともしび)、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。」
(箴言6:20−23)
 どのような人も家庭で育まれその人生を始めます。人は人と共に生きる事によって「人間」であると言われます。言い換えれば、人は「人間」ではないという事になります。「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。」(エフェソ5:31−32)。確かに人は一人でも生活できるといえます。しかし、ここに指摘されているように、「どうして?」という問いには、「神秘は偉大です」としか言い得ないのです。「神秘」、わからない、理解できないのです。「二人が一体となって」、「人間」になるのです。人は、「神にかたどって創造された」のです。神の形に創造された人間の根本的な存在は、「愛」なのです。「愛する人」と、「愛される人」があって、はじめて人の存在が成り立つのです。本来、「愛し合う男と女」がいて「愛」が実在するといえます。
 先週、キリストとの関係をヨハネによる福音書15章の御言葉から学びました。「わたし(キリスト)はまことのぶどうの木、わたしの父(神)は農夫である」(ヨハネ15:1)「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)キリストと人との関係は、これらの御言葉から知る事が出来ます。ぶどうの枝が木に繋がるとは、神の愛、神の命に繋がる事であり、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:7)とあります。キリストに繋がるとは、キリストの言葉を信じる事なのです。
そして、「わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(ヨハネ15:9、10)とあるのです。ぶどうの木に繋がる事は、キリストを信じる事であり、キリストを信じる事はキリストの言葉にとどまることに他なりません。キリストを信じ、キリストに生きる事は、キリストを愛する事です。ですから、主は「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(15:10)と言われるのです。主イエスがこれらの事を話されたのは、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(15:11)と断言しておられるのです。それは家族が幸せに生きる道であり、キリストの喜びが満ち溢れ、豊かな実を結ぶ事によって、神が褒め称えられる事です。即ち、神の叡知を賛美するのです。ですから、賛美こそキリストの信仰の証しであり、神の栄光を称える喜びの告白なのです。
互いに愛し合う事は「掟」とあります。口語訳では、掟を「いましめ」と表しています。それは、「過ちを犯さないように与える訓戒」であって、人間が生きる道を誤らないようにする「言葉」なのです。「互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である」(15:17)。この命令は、神の「戒め」であり、モーセがシナイで受けた「十戒」であるのです。十戒の前半4つは神に対する戒めであり、後半6つは人と人との関係における戒めです。神ではないものを神として礼拝することは、偶像礼拝であり、根本的な人間喪失の原点なのです。次に、「神の御名、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めが続くのです。それは、神を不敬虔な思いで崇める事を禁じているのです。そして、安息日、即ち、天地の創造をなし終えて、創造の調和に満足され、安息された事から、人間も休息して神の全能と栄光を敬う事が求められているのです。キリストが人間の全ての罪を十字架で贖われ、永遠の命の保証として「復活」された喜びの日として、現在は日曜日を「主の日」として、「礼拝と休息の日」と定められたのです。礼拝の中に創造主の栄光を現す人の姿があるのです。そして、人が生きるべき根本、男と女が結ばれて一つになる、人間になるのです。主は、「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。・・・それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(マタイ19:4、5)と言われたのです。人は愛し合って人間となるのです。戒めの第5からは、人と人が生きるための戒めが示されています。それは、神の愛と祝福が約束されているのです。
その第一に、「家族の幸せの根本」が示されています。「あなたの父(ちち)
母(はは)を敬え」(出20:12)とあるのです。きょうは父の日です。家族の幸せの基本は、「両親が子供に敬われる」事にあるというのです。箴言6章20−23節には、「わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。」とあります。使徒パウロも、「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しい事です。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。」(エフェソ6:1、2)と言っています。父は家庭の責任を持ち、家族を養い、子を育てなければなりません。父の働きは、また母の存在なしには成し得ません。家族の幸せは、両親が慈しみ合い、助け合う姿を見て育つのです。そこから生まれる父への尊敬が子供の幸せであるといえるのです。信仰のない父親が、酒に溺れ、賭け事にふけり、短気で凶暴であったとしたら、子供にも母親にも悲劇です。子供は父を軽蔑し、憎しみさへ感じてしまうのではないでしょうか。しかし、クリスチャンとしてキリストに結ばれている子供は、聖書の「父と母を敬え」という御言葉によって、キリストにあって赦し、労り支え、その父の言葉や行状に対して、父であるがゆえに「敬う」のです。両親が真の信仰者であるならば、お互いがキリストの愛に従い、その愛と御言葉に生き、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:7)のです。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。わたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(ヨハネ15:7−8)という御言葉がそのとおりになるのです。家族のために祈りましょう。両親に感謝しましょう。家族が皆主イエスを信じて、主の愛に生きる喜びを分かち合えるように。

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