阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年7月9日
「喜びと信頼」
ローマ14章17−19節

 ローマ人への手紙は、パウロがケンクレアで紀元58年頃ローマ教会に宛てて記した手紙です。この手紙には、人は主イエス・キリストを信じる信仰で義とされるという事と、義とされた者はそれにふさわしく生活することが書かれています。義とされるとは、罪のために神と断絶していた者が、キリストの十字架の贖いによって罪を赦され、神と正しい関係を持つことができたという事です。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:24、25)かつては真の神を知らず、自分の思うように生きていた人は、罪の道を歩み、滅びに向かっていました。しかし、神はイエス・キリストを遣わされ、この方の十字架の贖いの御業により、神の恵みによって「無償」(ローマ3:24)で人を義とされました。
誰でもイエス・キリストを心に受け入れた時から、人生は変えられます。生きる目的と意味を知るからです。
ローマの教会の中のユダヤ人クリスチャンの中で、考え方の相違がありました。クリスチャンになって、律法の食物規定から解放されたのですが、人によって考え方が少し違ったのです。豚の肉を食べても何の差しさわりもありませんが、長い間の生活の習慣になっていて、ある人は食べる、ある人は食べないといったことがあったのです。それで、お互いが裁きあうような事がありました。
パウロは、信仰の弱い人のつまずきにならないようにしなさいと教えました。まだ信仰に入って間がなく、分からないことが多くあるような人を受け入れて、その人たちのためにあえて自分の自由を抑えていくという教えです。つまずきの種にならないようにと注意しました。
キリストを信じた者は誰でも神の国に生きています。神の御支配の中に生きています。神の国とは、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)とあります。神の国に生きる者は、聖霊によって「義と平和と喜び」の中に生きるのです。主イエスの贖いによって罪が赦されれ、罪のない者として神に受け入れられ、神の子とされたのです。
神の子は、心に平和が沸き上がります。そして、常に喜びに満たされるのです。ペトロ第一の手紙1章8、9節には、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」とあります。神の国に生きる者かどうかは、外見ではわからないかもしれません。しかし、魂の内に言葉で言い表すことのできない喜びが満ちているというのが、救いの証しなのです。聖霊が住まわれているという事、これが神に義とされたという印です。
このようにしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、人々に信頼されるとあります。
自分の存在が誰かに喜ばれているという事は、生きる励みになります。自分がいてもいなくても同じで、誰も気に留めていないと思うなら、生きる気力が失せてしまい、生きる目的もはっきりしなくなってしまいます。また、自分に価値があるので、人が喜ぶのなら、その価値が失われた時には、喜ばれなくなると考える事が出来ます、たくさん働くことが出来て、益を生み出すから喜ばれる、しかし、働けなくなったら喜ばれないのでは悲しい事だと思います。世の中は、何かしら価値があるから喜ぶのではないでしょうか。主イエスはどうでしょうか。人は罪深く不信仰に陥りやすいものです。しかし、どのような者をもそのままで愛して下さるお方です。価値があるから愛するのではなく、罪ある者をありのままで受け入れ、愛して下さるお方です。
神の国に生きる者は、神の平和を造り出す者です。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と主イエスは言われたのです。神の国は平和なのです。
自分自身の心が平和であれば、他の人々に平和を示し、平和に導く働きができます。争いがあっても、共に神に聞き、解決の道を待ち望むのです。また執り成しの祈りをささげる事ができます。全能の神を待ち望むことができるのです。神は祈りに答えてくださいます。神は平和の神ですから、平和をもたらされるのです。この世の平安ではなく、主イエスの平和に満たされて日々を歩める事は何よりも幸いなことです。
 魂が喜びに満ち溢れる事は神の子の印です。それは、救いの喜びです。主イエスにすべてをより頼む時に得られる喜びです。
 喜びと平安をもって日々キリストに仕える時、それが神に喜ばれる者であり、人に信頼されるのです。
信頼するとは、語る人の言葉を受け入れる事です。信頼できない人の言葉は受け入れる事ができません。私たちが神の国に生きる時、神が喜び、人が信頼し受け入れる者にされるのです。
神は無価値な者を愛し、愛し続け、ご自分の栄光のために用いてくださる事を感謝しましょう。
フィレモンへの手紙11節に、「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」とあります。
コロサイに住んでいたフィレモンの元から、オネシモ(役にたつ者)という僕が逃亡し、オネシモはローマでパウロと出会い、パウロの元でキリストを信じる者になったのです。パウロとフィレモンは旧知の仲であったようです。また、フィレモンの家は教会として用いられていました。当時、主人の元から逃げ出す僕は重い罰を受けなければなりませんでした。パウロはオネシモを自分の手元に置いておくことも考えたのですが、主人の元に送り返すことが正しい事と思いました。それで、フィレモンに手紙を書き、愛する兄弟として受け入れてくれるようにと書き送ったのです。キリストを信じて変えられたオネシモは、その名のように信頼に足る者となり、喜ばれる存在になるとパウロは確信したのです。
私達も、かつては神から遠く、罪の中にあっても罪を知らずに歩んでいた者でした。神に喜ばれる者ではありませんでした。人が本当に信頼してくれていたのかどうかもわかりません。それが今は主イエスを信じて神の国に入れられ、神の愛の中に生かされていることを感謝します。そして、これからも神の国の平安の中に一人でも多くの人が招かれるように、信頼に足る者として用いられて行きたいのです。
日々、神の愛を確信し、神の信頼を喜び、神に応答し、その信頼に答え、励みながらの歩みであるよう祈りましょう。聖霊に満たされることを求めましょう。




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