阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年7月23日
「慈しみと憐みの神」
ルカ13章10−17節

  主イエスが安息日に会堂で教えておられた時、そこに18年間病いのために腰が曲がったままでいた婦人がいました。その腰はどうしても伸ばすことのできないものでした。
主は、その婦人をご覧になり、み許に招かれて、「婦人よ、病気は治った」と言われ、手を置いてくださいました。ただちに病は癒され、この婦人は神を賛美しました。すると、会堂長が腹をたてて、群衆に向かって「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうが良い、安息日はいけない」(ルカ413:14)と言ったのです。
安息日については、モーセの十戒に、安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・・主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:8−11)と教えています。
これは、ユダヤ人にとって大切な教えでした。六日の間は労働をするけれども、七日目は神が天地創造を終えられて安息されたので、安息の日であり、神を褒め称える特別な日と定められていました。地域の会堂に行き、律法が朗読され、即ち神の御言葉を聞き、賛美、感謝をささげました。礼拝の時をもったのです。安息日を守る事が神の民の証しでした。
 主イエスも安息日には会堂へ行かれ、教えておられました。
主イエスはナザレの会堂でイザヤ61章を朗読されました。いつもの通り安息日に会堂に入り、と記されています。安息日を守っておられたのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18−19)と朗読されて、今日、この御言葉が成就し、救いの時が到来したことを宣言なさいました。主はこの御言葉のように、罪に縛られ、病に苦しむ人々を救い、解放し、永遠の命を与えるために来てくださったのです。
ユダヤ人の宗教指導者たちは、恵みと祝福であるはずの安息日の意味を忘れてしまい、神の慈しみと恵みを覚えて、感謝する日ではなく、何もしてはいけない日として、人を縛るものとして教えていました。医療行為も行ってはいけないことになっていました。一刻を争うような病気に対しても治療はできません。ですから、人を癒すことも安息日にはしてはいけない事になっていました。
会堂長に対して、主イエスは、「偽善者たち」と呼びました。
「あなたたちはだれでも安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年間もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」(ルカ13:15−16)と言われました。
律法はたくさんあるのですが、一番大切な律法は、神を愛することと、隣人を愛することであると、主イエスは教えてくださいました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい」
聖書はこの二つの教えに基づいているとあるのです。(マタイ22:37−40)18年間も痛く、苦しく、日常の生活にも不便であった女性、しかも病気は罪の結果だと、精神的にも苦しまなければなりませんでした。それが、主イエスによって心も体も癒され、解放されたのです。
普通に体が動く時には、日常の何気ない動作である、手を伸ばしたり、屈んだり、物を持ったりなどできることは、当たり前のように思います。ところがひとたび痛みがあったり、けがをしたりして手足や体を動かせなくなったら、その苦しさは大変なものです。
この女性は18年間もそのような状態だったのです。
主イエスの慈しみと、憐みの心は、「明日」ではなく、必要とあれば直ちに癒し、解放してくださる所に表されています。
癒された女性は神を賛美しました。
主の御言葉を聞いたユダヤ人指導者たちは恥じ入ったのです。そして、群衆は主のすばらしい御業をみて喜んだのです。
もし、神の慈しみと憐みがなかったら、人は生きる事ができません。なぜなら、罪に縛られ、自分でどのようにして歩むべきかわからず、道に迷い、行き着くところは滅びだからです。人は、神の招きの声に従う事さえできないような者であったのです。
しかし、神は誰の事も忘れることなく、慈しみ、憐み、救いの手を差し伸べ続けてくださいました。
「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3,4)
天地万物の創造者、真の神が私たち一人一人を創造され、生まれた時から背負われ、一生涯助けて支え続け、完全な救いの中に導かれると言っておられるのです。これが神の愛であり、神の御心です。
神は、どれほど一人一人を愛し、慈しみをもって手を差し伸べているかを知ってほしいと願っておられるのです。この神の憐みを信じ、この方が下さる真の平安に生きる事を望んでおられるのです。    真の慈しみと憐みは、主イエスの十字架によって表されました。主イエスの十字架で贖いを成し遂げてくださいました。
私たちは、主イエスを救い主として心に受け入れた時、すべての罪と束縛から解放されるのです。救いを心から喜び賛美する者に変えられるという体験をし続けるのです。
 心の悩みや、苦しみ、さまざまな戦いの中にいる時こそ、主を呼び求め、生きておられる主イエスを体験するチャンスなのです。
心の腰が折れ曲がり、自分ではどうしようもないと思えるような時、慈しみと恵みの神は手を差し伸べ続けておられます。
モーセがシナイ山で十戒を受けた時、神は御自身をこう宣言されました。「憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出エジプト34:6)
そして、更に「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず」とも言われました。十字架の贖いが完全になされた今、神は悔い改めを待っておられるのです。イエス・キリストの十字架により、罪を罰せられなければならなかった私たちは、赦されて憐みと慈しみの神、忍耐強く、まことに満ちておられる神を父とお呼びし、みそば近く進むことが出来る者とされました。
心から神を褒め称えましょう。賛美をささげましょう。ここに救いと許しがあることを宣言しましょう。


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