阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年8月6日
「星のように輝く」
フィリピ2章12−18節

 フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがローマの獄中で記した手紙で、獄中書簡と言われています。
フィリピは、パウロがマケドニア伝道に召されて最初に伝道活動を行い、紫布の商人リディアや、パウロが捕らえられていた牢の牢屋番と家族が救われて教会が建て上げられた街です。
フィリピは、使徒言行録16章に、マケドニア州第一区の都市、ローマの植民都市であったとあります。人々はローマ風の衣服を着て、ローマの言語で話し、ローマの法に従っていました。いわば、小さなローマのような都市だったのです。そこで、主イエスの救いの御業がおこりました。
フィリピで伝道するパウロたちの後ろを、占いの霊に取りつかれている女奴隷が、「この人たちはいと高き神のしもべで、神の救いの道を宣べ伝えているのです。」と叫びながら幾日もついてきました。それで、パウロはこの女性を癒しました。伝道の助けではなく、かえって妨げになっていたからです。この奴隷の主人は、この女奴隷によって多くの利益を得ていたのに、それができなくなったのでパウロを訴え、役人に逮捕させました。パウロとシラスは、服を剥がれ、何度も鞭うたれて牢につながれました。真夜中ごろ賛美をし、神に祈っていると、囚人たちは聞き入ったとあります。地震が起きて、牢の戸がみな開き、囚人たちは皆逃げ去ったと思った獄屋番は自殺しようと思いましたが、パウロに大声で止められました。獄屋番は、牢の中に駆け込み、パウロの前に震えながらひれ伏して、「救われるにはどうすべきでしょうか」と尋ねたのです。心から救いを求めたのです。囚人が逃亡していない事で、救いはあったのですが、この牢屋番が求めていたのは、魂の救いだったのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という答えに、その夜の内に主イエスを家族と共に受け入れバプテスマを受けました。
パウロたちの傷を手当てし、食事を出し、真の神を信じる者になったことを家族ともども喜びました。
 翌朝、パウロは、ローマの市民権を持っているパウロを裁判にもかけずにひどい扱いをしたことに対して抗議し、高官たちはパウロに詫びて、町から出るようにと求めました。
 最初にパウロが逮捕された時、ローマの市民権を主張すれば鞭うたれることも、投獄されることもなかったかもしれません。しかし、投獄は牢屋番と家族の救いに繋がったのです。
このようにして、フィリピで神を信じる者の群れ、教会が建て上げられていきました。
パウロはフィリピの教会に、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:3−6)と書き送りました。
パウロが感謝と喜びをもって祈るのは、最初から今日まで福音にあずかっているからだというのです。「福音にあずかる」とは、どのような意味なのでしょうか。これは、共に荷を負っているという意味があります。つまり、パウロがフィリピで伝道し始めた時から今日まで、一緒に福音のためにともに荷を担ったということです。
それは、パウロにとって、心強いことであり、何より喜ばしいことでした。
人は弱さがありますから、どのような事でも最初はしっかりと励んでいこうと決心しても、途中でだんだん心が弱くなって、投げ出すということもあります。三日坊主という言葉があります。寺に修行に入っても、厳しさに耐えられずに三日でやめてしまうようなことをいいます。長続きしないという意味です。フィリピの教会は、福音に対しての姿勢を変えてしまうようなことはありませんでした。
パウロは、そのような群れにさらに励ましの言葉を送っています。
まず、従順であることを教えました。従順とは、信仰の基本です。イエス・キリストに対する信仰は従順であることから始まります。
従順さとは、主イエスから学ぶことができます。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6−8)
私たちは、ご自分を無にされて、十字架の死に至るまで従順であられた主イエスの御姿から、従順であることを学び、求め続けなければなりません。神の御心を行えるのは、従順であるからです。神の前に敬虔な心で自分の救いを感謝し、成長し続けるようにと教えています。救いは神の御業です、それを始められた方は私たちに働きかけて下さり、完成に導いてくださいます。
次に、何事についても不平や理屈を言わずに行うようにという勧めが成されています。ここでの不平という言葉は、出エジプトをしたイスラエルが、荒野で水がないと言ってモーセを非難した不信仰の言葉と同じ言葉が使われています。また、理屈とは、真理からそれた疑いを表す言葉です。どちらも全能の神を疑う不信仰を表しています。
この御言葉をしっかりと心に留め、そのように生きるなら、この罪の世にあって、混じりけのない、純真な信仰のゆえに「非の打ちどころのない神の子として星のように輝く」とあります。(2:15)罪深い者を主イエスの十字架で贖い、神の子とされたばかりか、非の打ちどころのない者として、この悪い時代の中に星のように輝かせてくださるのです。
北極星(ポラリス)と呼ばれる星があります。北の空にほとんど動くことがないので、位置を確認するために用いられてきた星です。
方向が分からないときに導いてくれる星です。しっかりと自分の位置を守り、輝き、人々の導き手となる星です。そのようにクリスチャンは輝くことができるのです。命の言葉、即ちキリストを表し続けることができるのです。
 パウロは、やがて自分が殉教することを予期していました。礼拝は、自分自身を神に喜ばれる生きた聖なる全焼の供え物としてささげる時です。パウロは自分をささげ尽くしたことに喜び、あなたがたも喜びなさいと勧めました。フィリピの手紙は短い手紙ですが、困難と迫りくる殉教の中に会っても、常に喜べ、喜びなさいと喜びが満ち溢れています。それは、信仰の実りである、魂の救いを受けていることにほかなりません。この罪の世にあって、人々を導く星のように輝く信仰に生きる者でありましょう。


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