阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年8月13日
「平和の福音」
マタイ5章9節 

 主イエスは公生涯に入られてから、すぐに山上の教えを説かれました。山上の教えを読むと、信仰の成長や信仰によって進むべきことなどを教えていただくことができるのです。どのような人が幸いであるかを教えられたのですが、その七番目に「平和を実現する人々は、さいわいである。その人たちは神の子と呼ばれる」とあります。今私たちは、平和な時代に生かされています。72年前の8月15日に戦争が終わり、戦後の混乱が続く中に徐々に世の中が落ち着いて、現在まで平和が続きました。
第二次世界大戦では、日本では230万人の兵士が戦死し、一般市民は80万人が死ななければなりませんでした。これは日本だけで、世界では数えきれないほどの人々が犠牲にならなければなりませんでした。平和ではない世界では人が命を落とし、生きる事が出来ないという事が数字で理解できます。
人はどうして生きる事ができないような事態を招くことをするのでしょうか。それは、人の持つ罪の為であることは明白です。自分が富を得るため、また、豊かになるために他の人から無理に奪い取ることが争いに繋がるのです。ヤコブの手紙には、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」(4:1、2)とあります。
心の中の欲望、罪が原因だと言い切っています。願っても得られないのは、自分の楽しみのために間違った動機で求めるからだともあります。これは、家庭の中でも、国同士でもいえる事なのです。
人は誰でも、自分の利益になるように考えてしまう自分を中心とする心をもっています。そういう心を生まれながらに持っているのです。「原罪」といいます。この頑なな心がすべての争いを起こす原因となります。また、怒りや妬み、恐れなどで心が縛られてしまいます。このような心は良い実を結べません。悲しみと争いの結果、取り返しのつかない死に至ってしまうのです。
そのような世界にイエス・キリストは生まれてくださいました。
神の独り子が全世界の罪を贖うために罪の世にお生まれくださったのです。
 ザアカイという人がルカ19章に登場します。ザアカイとは、ヘブル語ではゼカリヤであって、清い人、善人という意味があります。
彼は徴税人の長で、金持ちであったと、説明されています。当時のローマ帝国に同胞たちから税を徴収し、納める者であり、更に不正に取り立てることが公然とされていたので、当然嫌われ、罪人として誰からも相手にされませんでした。平和を作りだす人ではなく、争いの元となったような人でした。ザアカイの住んでいたエリコへ主イエスが来られた時、大勢の人がいたのに、主イエスはいちじく桑の木の上にいたザアカイの元にやってこられました。そして、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とお声をかけてくださいました。人々は、なぜあの罪人の家に泊まるのかと不思議に思ったのです。ザアカイは喜んで主イエスをお迎えし、「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」(ルカ19:8)と、申し出ました。これらは、主イエスに強制されたのではありません。ザアカイは主イエスを心の中に迎え入れ、新しく生まれるという体験をしたのです。心の大きな穴が主イエスによってぴったりと埋められました。これは、主イエスを信じる以外には埋められない心の穴です。救いの喜びが泉のように沸き上がり、今まで大事だと思っていた財産など命にはなんの役にも立たないと気づきました。受けるより与える方が比べられないほど大切なことに気づいたのです。神と断絶し、人との関係も壊れていたのに、主イエスを心の中に迎え入れる事によって、新しい命を持つことができました。主イエスはザアカイのためにエリコをお通りになったのかもしれません。主イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は失われたものを捜して救うためにきたのである」(ルカ19:9、10)と言われたのです。人とも神とも平和な関係ではなかった者が、主イエスをお迎えした時に、神との正しい関係に立ち戻り、人との関係も平和に修正されていく。これが主イエスの平和の福音です。
主イエスを迎えた時、ザアカイは自分が何をすべきか心に示されました。自分から行動に移りました。平和を実現するためには、まず何ができるか考え行動できるのです。 
平和とは、へブル語でシャロームといいます。このヘブル語は、単に争いがないという事ではなくて、人の最高の幸福を造り出すすべての物を指す言葉です。悪いことが起きないようにではなく、すべて良い事がおこるようにという意味があります。
平和を実現する人々は、神の子と呼ばれるとは、すなわち「神のような働きをする」とも訳せる言葉です。
主イエスは主を信じる者を罪から救い、解放して平和の神の子とされたのです。主イエスは、信じる者をすべての恐怖から解放し、人生の導き手として導き続け、嵐の中にも平安と感謝の中に置いてくださる事を教えてくださいました。また、将来に対して希望を与え続けてくださいます。平和(シャローム)は、主イエスからもたらされるのです。
主は罪の贖いのために十字架の犠牲を払ってくださいました。それによってすべての人が罪から完全に贖われたのです。神の愛は主イエスの十字架であらわされました。アガペー、犠牲の愛です。
互いに愛し合いなさいというのが、主の教えの根底にあります。言葉や口先ではなく、行いをもって誠実に愛し合うことが教えられています。神の愛、アガペーは自己犠牲の愛です。行動によって愛が表されるのです。
キリストを信じた者が、この愛を表す時に平和は表現されるのです。心の中の平和が見える形であらわされるところにアガペーは現れるのです。
家庭の中の平和、職場での平和な関係、すべてのところの平和、そして国際間の平和は、神の愛を知る者によって造られるのです。
犠牲があるかもしれません。それは神の前に尊いことです。
パウロは、この愛がなければどんな働きも空しいと記しました。
「愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Tコリント13:4−7)このように生かされることにより、平和を実現する者となります。平和の福音を届ける神の子として、主が来られるその時まで平和の神の働きをさせていただく者でありましょう。


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