阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年8月20日
「神の国の喜び」
マタイによる福音書6章25−34節

 「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか。注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を窮めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日(あす)のことまで思い悩むな。明日(あす)のことは明日(あす)自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:25−34)
 神様を信じることは、神の命に生きる事です。神の命は神の御心であって、神様を信じることは神の命、即ち、神の言葉で生きると言えます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1−3) 森羅万象の存在の基本は神の言葉で形成されたと聖書には記しています。そして自然に秩序を備えて営み、「神はご自分にかたどって人を創造され」(創生記1:27)、そして言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(:28)これはすべての創造物のあり方の根源を指していると言えます。
人間を除くすべての地球の自然のありかたは、創造の自然の仕組みの中で命を繋ぎ続けているのです。自然の営みは人は神に似せて創造されたので、神を信じることによって、人の心に神の存在を自覚できるようになるのです。
 神様を信じない、認識できない時に、人は理性で物事を詮索し、理解できない事は存在しないと考えます。神様の認識は、「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)。全てのものに存在の初めがあるように。その存在の原始が神の御心によるのであって、その根源は「信じて」はじめて「解る」のです。
神様を信じる事は、神の「言葉」に生きる事です。神は人に「自然の全てを支配するように委ねられた」(創1:28)のです。自然の動植物を用いて生きる希望と喜びを備えられているのです。しかし、現実には、人が生きる時、生活の中で様々な試練に直面するものです。衣食だけでなく、人との協調の問題があり、信頼を裏切り、裏切られる。そのすべてに何を食べ、何を飲み、何を着る。住まいをどうするかというような、生きるための苦悩が付きまとうのが常であるのです。
 主は言われます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」(マタイ6:25)
 人は、着ること、食べる事に心を煩わせ、思い悩むのか常です。世の中の人々の様々な働きも、食べる事、着る事に繋がっているのです。しかし、立派な家に住み、ぜいたくな衣食を得たとしても、そうでなくても、体と命の尊さは誰であっても変わりなく重く、尊いものであると言えます。小鳥や、野の花が自然の中で生かされているのを見ると、創造物を再創造し、着るもの、食べるものを工夫して生きる人の営みがどれだけ神様に配慮され、支えられているかに感動するのです。神様の御心を忘れ、恵まれた可能性の中で生かされていながら、神の御心を忘れて思い煩い、その命と体の驚くべき存在を忘れているのが人間なのです。
「『何を食べようか』『何を飲もうか』『あるいは何を着ようか』と言って思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものが、みなあなたがたに必要なことを存じである。」(:31,32)。この御言葉は、言い換えれば、神様の存在とその配慮、愛と恵みに生かされていることを忘れてはならないという事なのです。
着るものに華美の優劣があっても、人の差異があったとしても、どんな人の体も神に与えられ、神に似せられた存在であるのです、そして「命は食べ物よりも大切である」とは、この「命」は聖書の言葉ギリシャ語では「プシュケー」であって、「魂」という意味です。「魂」は人間の霊的な存在を現し、神様と交流し、生かされる存在であることを示しているのです。神様の創造の根源、即ち、命に生かされている尊い存在であるのです。この世の価値観で人を見て、優劣をはかることがどれだけ空しいことであり、慎むべきことかがわかります。
神が愛であるように、人は本来、愛し合ってこそ、真実な「人間」とされるのです。神様を信じることは神を愛することです。愛に生きる事は人を愛する事であり、その愛こそ、神の命であり、「プシュケー」すなわち魂に生きる、神の霊に生きる、命に生きる事であるのです。
「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)
神の愛に生きる事は何よりも「神の愛と義を原則として生きる」事であって「そうすれば、“必要”なものは加えて与えられる」と約束されているのです。人生、現実の命、体には終わりが来ます。しかし、私たちの「魂」は有限であり、永遠に生きる「命」に生かされていることを感謝しようではありませんか。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
主は、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)と言われるのです。神様の「命令形」は「直接法」で読んでこそ、主イエス様の福音の豊かさと、その「戒め」を受け入れられ、どのような事においても主の御心に希望を持つ事ができるのです。「思い悩むな」と言われても、人の日々の営みの中で、仕事や家庭生活、仲間との交わり、人との付き合いなど、「悩み」や「心配」はついてくるものです。しかし、どんな時にも神様を信じ、主イエスの言葉に導かれ、支えられている時、「悩むな」という言葉は、「悩まずにいることができるようにしてあげよう」という「約束」の言葉として読むことができるように信仰の恵みに導かれるのです。 「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方(キリスト)のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(ピリピ4:12−13)
 主を崇めましょう!だからこそ「何よりもまず、神の国と神の義を求めよ」うではありませんか。(マタイ6:33)ハレルヤ!
 主を信じる人は、神様に愛されている喜びを知っているのです。勝利の約束と希望とに生きているのです。そこには3つの日々の証が生まれてくるのです。主にあって生きる人は、第一、「感謝」があふれる日々であるのです。そして「祈り」の日々がそこに生まれるのです。祈りは神様の言葉を聞くことから始まります。神の言葉は「聖書」です。聖書を読むことは祈りの前提です。そして祈りは主に対する賛美と感謝に始まり、生きておられる命の神様との交流を、主イエスの恵みを感謝するのです。そして第三番目に主に「賛美」が生まれるのです。主と共に歩む日日こそは勝利の証であり、永遠の命の証であるのです。
ハレルヤ、ハレルヤ!!感謝。


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