阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年8月27日
「祈りの恵み」
マタイによる福音書6章5−15節

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:5−15)

 クリスチャンであることの証は、「祈る」ことにあります。クリスチャンであっても祈りのない生活は、命のない体のように死んだ信仰であると言えます。信仰が単なるアクセサリーのようであっては意味がありません。祈りはこころを生かし、魂の命として神の恵みを証するものだからです。
 人間の生活は様々な人と交わって成り立つものですが、お互いに交流しながら、自分を優位に見せかけたり、自慢したり、人と比べて自尊心を満足させようとする誘惑にいつもかられるものです。
人は、自己中心であって、自己優位の思いに振り回され、真実の自分を隠そうとします。聖書は、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」(6:5)と教えます。
祈りは人と人との交流ではなく、神様との「交わり」であることをしっかりと自覚しなければなりません。
人の前で祈る時、「異邦人のようにくどくどと述べてはならない。」(6:7)と言われています。確かに代表して祈る時には、美辞麗句をもって長々と祈るという誘惑に陥りがちになりますが、聖書は「くどくどと述べてはならない。」(6:7)と注意しています。祈りは人々に聞かせるのではなく、活ける唯一の神様に祈るのです。その祈りが会衆の心と一つになって初めて祈りの一つとなるのです。
 「祈り」について、「偽善的な心情」で祈ることを戒めています。多くの人々と共に祈る共同の祈りは大変重要であるのですが、「祈り」そのものの根本的な意義をしっかりと自覚しなければなりません。
第一に、祈りは「神様の御心を聴く」ことが基本であるのです。祈りは自分の願い、自分の祈念を求める動機であるのですが、最も根本的な「祈りの本質」は「神様の言葉を聞く」ことにあるのです。だからこそ長い歴史の伝統としてユダヤでは「聖書を読むことは、聴くこと」であって、「祈り」であると言われるのです。
 生きた信仰生活の土台は「御言葉を「読む」,即ち「聴く」ことにあります。「言葉数が多ければ聞き入れられる」(6:7)と思い込むことを避けなければなりません。「祈り」は「神の言葉」を聞き、その応答としての信仰の告白であるのです。
第二に、「祈り」は神の言葉を「聴き」、受け入れ、信頼することです。それが魂の「糧」となり、霊的な命として、祈る人の魂を生き還らしめ、霊の命としての生命力を与えられると言えます。祈りは、祈る人の魂を生かし、神の御性質としての神様の「愛」と「聖性」の命の満たしに導かれるのです。
第三に、ですから生きた真実の「信仰」の根源は「祈り」にあるのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(6:8)
この御言葉は、神様は祈る人の生活の全て、心の中の苦悩を理解し、その現実のために備えていて下さるということを明らかにされているのです。神様は、私たちが悲しみや、苦しみ、孤独や窮乏の試練に襲われたとしても、守り、導きかれ、様々な境遇にあっても、インマヌエルなる主は、祈りのあるところに「共に居て」くださるのです。そして言われます。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Uコリント12:9−10)。いかなる孤独、いかなる試練、いかなる弱さ、悲しみにあっても主が共に居て、祈りのあるところには勝利があるのです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。離れさせるのか。艱難か。苦しみか。迫害か、飢えか。裸か。危険か。剣か。―――しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(ロマ8:35−37)
人生には様々な試練があります。どのような試練の中でも主イエス様の御言葉に支えられ、聖霊の命に導かれるところには、「勝ち得て余りがある」信仰の勝利、「祈り」の解決が与えられる。信仰と希望に生きる祈りの生活を実践しようではありませんか。
主イエスは弟子に祈りを教えられ、教会は「主の祈り」として伝承してきたのです。この祈りを毎日、繰り返し、告白し、心にとめ、魂の命、糧として繰り返し唱えようではありませんか。祈りのない信仰は形骸化した命のない信仰であるのです。森羅万象を創造された、全ての根源である創造主、混乱と破滅を回復される救い主は、罪悪と穢れの混乱を御子イエス・キリストの十字架の贖いによって聖め、神様の愛を示されました。平和の根源を示されたのです。「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する『愛』を示されました。」(ロマ5:8)「神は愛である。」(Tヨハネ4:8)。
「祈り」は神様の愛に生きる最初の告白であると言えます。イエス様の贖いによって現された神様の愛は、祈る人を神様の愛を生きる、真実の平和を祈る人に変えるのです。
「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように、御国が来ますように。御心が行われますように。」(マタイ6:9−10)クリスチャンは「祈る」人であり、神様を忘れ、神様を無視する罪深い混乱と破壊の世界の中に、真実の人の道、愛と永遠の命に生かされるという祈りの使命に導かれているのです。「執り成しの祈り」こそ、クリスチャンに与えられた、生きる使命であり、証であるのです。「執り成しの祈り」は奉仕の祈りです。「執り成しの祈り」こそ信仰が証され、信仰の喜びと感謝の源で主を賛美する力となるのです。

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