阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年9月3日
「共におられる神」
コリントT 6章19−20節

 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 (コリントT、6:19−20)
 神を信じるとは、神の「言葉」に生きる、即ち、神の御心に生きる事を意味します。主イエスが十字架にかかられた事実を通して、真実の神が示されました。父なる神が、愛であり、聖であって、義である事実を、その証を通して示されたのです。神を信じる事は、教えを単に教えとして知るのではなく、神の子として生きる事なのです。神を信じる者は、正に、神に愛されている子であるのです。エフェソ5章1節、2節には、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う(ならう)者となりなさい。 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」とあります。クリスチャンは、「神に愛されている子供」神の子であると言っているのです。一方、神を信じない「異邦人」のように歩む事を戒めています。「異邦人と同じように歩んではなりません。」(エフェソ4:17)。異邦人は、神の御心を無視し、神の戒めに背き、知性は暗くなり、頑なな心のために自己中心に生きるのです。神の命から離れて無感覚、放縦に誘われてしまうのです。(エフェソ4:17−19)神を信じる事は、神を信頼する事であり、神様の御心に生きる事であるのです。聖書は明確に教えています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:22−24)。人は皆、自分は自由であると思うのですが、その自由とは、放縦な人生であって、自己中心でしかないのです。使徒パウロは自己の内心の罪深い現実をこのように言っています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ロマ7:15−25人間の内面の現実を赤裸々に聖書は示しています。「五体の内にある」罪の法則が虜にしている現実が解ります。「私自身はこころでは神の律法につかえていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ロマ7:25)人の日々の歩みは、「私は、自分のしていることが分かりません自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするのです。」(7:15)とある通りです。人間は、善を行おうとするが、肉の欲情が絶えず纏(まと)わりつき、無意識のうちに過ちを犯すことが多いのです。
しかし、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う(つぐなう)供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ3:23−25)「 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ロマ8:1)とあるのです。
イエス様によって罪から救われたクリスチャンには、聖霊が共にいて下さるのです。聖書は宣言しています。「あなた方の体は神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。」(コリントT6:19)。一時も忘れてはなりません。自分自身が「聖霊」を宿す「神の神殿」であることを!言い換えれば、人として生きながら、その思い、思考、歩む姿、生きる生活の営みすべてにイエス様の臨在、父なる神の臨在が証されるのです。体は生きながら、霊性が死んでいる、虚しく、儚く、侘びしい、道のない、目的を失った人生ではなく、尽きる事のない「永遠の命」を生きる喜びが、聖霊の臨在によって約束されているのです。クリスチャンの体は、自分のものであって、自分のものではないのです。クリスチャンの体は「神の神殿」であると聖書は宣言しています。聖霊なる神が共にあって、神様の恵みと栄光を現されるのです。ここに、クリスチャンの人生の目的、生きる目標が示されているのです。クリスチャンの人生の目的は、「神の栄光」を現す事と言えます。そして。神の栄光を現す事は、自分の能力で実現するのでなく、その根源は聖霊から出ることを忘れてはなりません。栄光とは、人の力を超えた神の偉大な能力を指し、物事を十全に成し遂げられる神の叡智、能力、配慮、勇気であり、神は素晴らしいと賛美する事です。「賛美」こそ、神の「栄光」を感謝する喜びです。賛美があるところに「神の栄光」が輝き、臨在を確信する事ができるのです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ3:23)とある通り、心を開いて悔い改める時、イエス様の贖いの恵みが心に満たされるのです。その贖いこそ神の恵みであり、その恵みを自覚して受け入れ得るようになるのは、正に、神である聖霊の働きによるのです。イエス様を信じる事は、聖霊の働きにある事を忘れてはなりません。『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』(コリントT12:3)神の子供としての証は、「祈る」事にあります。その祈りは、イエス様が「主の祈り」を教えられたように、父なる神を心に崇め、罪を贖い赦して下さった恵みを感謝する祈りで始まるのです。その祈りこそ「聖霊」によって生まれるクリスチャンの印であるのです。言い換えれば、クリスチャンは「聖霊」、活ける神の臨在に生きる事といえます。ここではっきりする事は、「あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。」(コリントT6:19)という事です。クリスチャン一人一人が「神の神殿」として存在することが示されているのです。神の神殿、聖霊の宮であるクリスチャンの日々は、神の素晴らしさ、栄光の恵みを「賛美と祈り」で証します。聖霊に満たされようではありませんか。聖霊の力によって祈る事こそ、神の栄光を崇める日々であるのです。これが人の人生の真実の目的であるのです。「だから、自分の体で、“日々の営み”で」(コリント16:20)神の栄光を現さなければなりません。クリスチャンの人生の目標は、「神の栄光を現し、神を褒め称える」事にほかなりません。聖霊は、私達が戸惑い、挫折し、低迷するような時も、共にいて助けて下さる方である事を感謝しましょう。「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:25−28)
 神の栄光を現わす事を祈り、願い、聖霊を遣わして下さる恵みを感謝し、聖霊に従い、御心に生きる者に万事が益となるようにされるのです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:37−39)ハレルヤ1


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