阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年9月10日
「収穫の喜び」
マタイ13章18−23節

 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:18−23)
 植物は生き物であり、植えられた土地によって、その生育は影響を受ける。
イエス様は人に話をされる時、譬えで話された。マタイによる福音書13章では種蒔きの譬えをされています。同じ種であっても,蒔かれた場所によってその育ちが違い、同じ種でありながら、すぐに取り除かれるもの、枯れてしまうもの、育ちはするが萎えてしまうものがありながら、一方、花を咲かせて豊かに実を結ぶものがある。イエス様は、ユダヤの長い歴史の中で培われてきた頑なな人々の心を、預言者イザヤの言葉をもって示しておられるのです。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』」(マタイ13:14−15、イザヤ6:9)。
ユダヤ人たちは、イエス様が現実に神の国と神の愛を示し、十字架に架けられた出来事を現わされたにもかかわらず、神の愛の真意を拒み、律法を守り切ることを固守できるという偽善性に縛られている事にとらわれる罪深さに気付かずにいるのでした。「神様が愛」であり「憐れみ深く」「慈しみ」に溢れ給うことを全く悟らなかったのです。そのユダヤの伝統的な思考は、人間が神の御心、即ち、神の律法を守る事によってのみ、神の命、「永遠の命」が得られると思い込んでいたのです。しかし、人間の霊的な実情は、100%神の掟を守ることは不可能です。又、目に見える掟を守ったとしても人は心で人を殺し、傷つけ、罵り,嘲ることがあるのです。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」(マタイ5:21−22)また、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(マタイ5:27−30)
 人の内面は、外側とは違うのが現実であるのです。イエス様は見える外面の掟だけを見るのでなく、内面の奥深く、隠された罪、穢れこそ、人間の根源的な心の中の実情であることを示されているのです。
「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」(ローマ7:13)
「 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
(ローマ7:14−25)
第一に、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」
(ローマ8:1−3)道端にまかれた種の例は、真実の神様から隔絶されている、生まれながらの人を指しているのです。人間の罪性の根源、しかし、迷いの包囲からイエス・キリストの救いの真理、真実の命へ回復させられるのです。まかれた地面の改善がキリストによって実現するのです。
第二に、「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」(マタイ13:20−21)
イエス様の福音を受け入れても石地にまかれた信仰は、根がないので力にならず、イエス様の恵みが力になることなく、その祈りは空虚に終わり、失望に終わり、勝利できないのです。
第三に、茨の中にまかれた種は、時と共に茨が生い茂り、茨に覆いかぶされ枯れてしまう。成長を目指そうとするが、茨の覆いに閉ざされ、いつの間にか自己満足の道をたどり、この世の富と誘惑に心惹かれ主にある祝福の恵みを見失うようになるという警告なのです。第四に、良い地に蒔かれたものとは「御言葉を聞いて悟る」人たちです。御言葉、イエス・キリストの御言葉です。教え、示された道を実践するとき、様々な困難に遭遇しても、キリストが共に居て行くべき道を示されるのです。そのためには主イエスの御言葉に立脚し、確信する信仰の固い思いが必要です。「 あなたの御言葉は、わたしの道の光わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105)暗黒の中ですべてを明らかにし、行くべき道を明らかにされるのです。光は希望であり、確信となるのです。「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。 わたしを強くして下さるかた(キリスト)によって、何事でもすることができる。」(フイリピ4:12−13口語訳)この信仰によって与えられる確信によって、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍」の実を結ぶことを約束されているのです。「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢(ごうまん)な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩1:1−3)

ハレルヤ!


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