阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年9月17日
「神の国の平安」
ヨハネによる福音書11章17−27節

 「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオン(約3キロ)ほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはず神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11:17−27)          
 天に送った家族を記念して共に追悼することができることを感謝します。時は移り行くと共に天に送った家族を思う気持ちも遠ざかっていくものです。家族のありかたも諸事情によって家を継ぐという考えが変わり、姉妹は嫁ぎ、兄弟はそれぞれの行く手を選び、家から離れて行く時代になり、家族の繋がりが薄れてきています。 以前は、家族が死を迎えれば、地域の人たちや、親戚中が集まって葬送の義を行うのが習慣でした。しかし、現在は、直葬や家族葬が行われて、町会でも葬儀が終わって数週間後になって報告に来られるようになってきました。 確かに、以前と違います、葬式が形式化して家族の心の繋がりが希薄になっている現状があるという事です。少子高齢化で家族の相互扶助が失われてきている時代であるようにも思われます。言い換えれば“愛”が失われていると言えます。
教会では春はイースター、秋には追悼記念会をして共に天に送った家族を偲び、良き思い出を懐かしみ、家族の繋がりと功徳を偲び、「家族の愛の尊さ」を感謝する時を持ちます。家族の繋がりは血統にあり、そのつながりから生まれる“家族の愛”であるのです。愛が失われたら、そこには憎しみ、対立、破滅しかないと言えます。
死に直面する時、それを喜ぶ人はいません。死にゆく人は“孤独”、空しい、寂しい、儚いというように思いが巡るものです。しかし、イエス様は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25−26)。ラザロの死に直面して戸惑う姉マルタに率直にそのように言われたのです。やがて、マルタは家に帰り、イエス様と共にラザロの墓に行った。イエス様は、。『父よ。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(ヨハネ11:41,42)と祈りました。「 こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」(11:43、44)
 真実の神は、手で作った神や,石や木で彫ったものではありません、また、日本では山や、川、滝、太陽、月、自然を神として拝みます。それは長い人の生活習慣で八百万の神や生活のための道具などを自然のお陰、神として拝む風習が日本の文化に根付いてしまっているのです。聖書には「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)とあります。この御言葉が示すように、全ての創造の根源である神様が、自然の秩序を創造し、「 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創1:27)とあるのです。神にかたどられた人間は、また、「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創1:28)と言われて、神に代わって支配するようにと記されています。神様の根本的な性質は「神は愛であり」(Tヨハネ1:8)「聖と義」であるのです。
 真実の神を見失い、独自の道を踏み出した時、「神に似せて」創造された人間は、欲情と自己欲にとらわれ自己保存の闘争の営みを続けるようになり、自己中心の原理に誘われて、罪の世の中に陥っているのが現在の世界の営みであると言えます。そして、人生の最後は死という誰も避けることのできない現実に戸惑い、“孤独”“暗黒”“無常”迷いに苦しむのです。死にゆく人を見守りながら自分の空しい人生の姿を重ねて嘆くのが現実の人の姿です。しかし、「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)。ラザロは現実に死んでいた。しかし、イエス様は、マルタ、マリアの姉妹の前で、また、多くの嘆く人の前でラザロを墓から呼び出し、生き返らせたのです。自然の人生は「終わる」が、しかし、永遠の命に生かされるという約束を証明されたのです。
 イエス様を信じる人は死で終わるのではない事を示しているのです。「死からの復活」、今現在の体をもって「永遠の命」に変えられる約束がそこにはあるのです。「永遠」それは無限の存在です。終わりのない世界です。
 現在の生かされている命は有限です。それは時が来ると失せてなくなる“空しく”“儚い”“侘びしい”“切ない”ものであり、豪勢な生活、華やかな人生を歩んでいても、どのような人でも“死”で終わるのが人生です。「限りある人生」が実状です。イエス様は、「永遠の命」に生きよと言われます。「永遠の命」とは始めもなく、終わりのない、どんな時にも変わらない「命」永遠に存在する命です。
 「イエス様は言われた『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(ヨハネ14:6)。イエス様によらなければ父のみもと、永遠の命、神の国に安らぐことが出来ないと言われています。永遠の命、始めもなく、終わりもない、それは「神の国」であるのです。
「 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:7−12)
イエス・キリストによって現された神の愛を生きる、そのところに神の国があり、永遠の命があるのです。キリストがなされた十字架の犠牲を信じるところに神の愛が現されているのです。神の愛こそ、神の国であり、「永遠の命」であるのです。
「 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20−21)
神の国はあなた方の間にある、即ち、現在の現実の中にあるというのです。それは、私たちがキリストに示された、神の愛に生きる、愛し合う中にあるというのです。神の臨在があるところが神の国なのです。確かに現在の体の命には終わりがあります。形あるものは失せて行くのです。しかし、「永遠の命」は始まりも終わりもない無限の命であるのです。地球にも終わりがあります。地球物理学者の今日の研究によれば、地球は40億年前に創造され、今から200億年の後には終わりが来るというのが定説になっているというのです。聖書は約束しています、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:1−4)
神の新しい永遠の御国の出現、死もなく、悲しみも、苦労も、嘆きもない神の国が約束されているのです。これは神であるイエス・キリストを信じ、神の愛に出会って、信じる人だけが受け入れることができる真理です。主イエスは事実、甦り、その真理の証を残されたのです。そして主イエスは言われています。
「 イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11:25−26)
主イエス様を信じて「永遠の命」によって「天国」に生きようではないか。


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