阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年9月24日
「素晴らしい祈りの日々」
マタイによる福音書18章15−20節

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:15−20)

 教会が祝福されていることは、教会の喜びであり、感謝が溢れます。教会の祝福は、喜びに満たされていることです。その喜びとは、絶えず新しい人々がイエス様を信じ、神様を信じるようになる事です。
それはイエス様を知らない人が、イエス様に出会い、真実の神様の愛に出会う経験であるのです。
人は生まれながらにして自己愛に生きる習性を持ち、本来自己中心という性に生れているのです。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:18−20)
使徒パウロは人の心の現実をつまびらかに告白しています。それは、人は自分で自分がどうすればいいのかわからないと言っているのです。  「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(7:21)
「私は何という惨めな人間なのでしょう」(7:24)しかし、感謝なことに、「 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:21−24)とあります。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)とあるように、ここにキリストの十字架を通して神の愛が示されたのです。人は本来の罪にありながら、イエス様の十字架の贖いによって赦され続けているのです。無自覚の内に罪を犯してしまう日々にありながら、「その罪を告白する」ことによって赦され続けるのです。だからこそ日々の祈り、また、主の祈りにおいて、「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(マタイ6:12)と祈るのです。
 毎日、自分の罪咎を告白し、赦され新しくされるのです。そこに平安があり、喜びが生まれ、感謝があふれ、賛美があふれ、感動が日々新たにされるのです。
 教会に喜びが溢れるのは、共に罪から救われたクリスチャンの喜びがあるからなのです。だからこそ教会に集まる時に、憎しみや、喧騒の中で礼拝することをいさめているのです。
「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5:23−24)とあります。
礼拝をするためにはさまざまな霊的な備えをする必要があります。共に主を礼拝するために、奉仕を通して備え、共に礼拝を整えるために祈り準備をするのです。そのような実情から、クリスチャンは共に神に仕える仲間であり、の家族です。その兄弟姉妹に、許しがたい憎しみや、許しがたい過ちを持ったままで共に奉仕ができるだろうか。
御言葉はどのような過ちも、憎しみも、一切の心のわだかまりを赦し会い、そして主を礼拝することを勧めています。言い換えれば、礼拝は共に「祈る」時でもあるのです。共に祈り、主にある祈りは「アーメン」で終結します。「アーメン」とは「そうです」「同じです」という同意を告白するのです。アーメンは真実の同意を意味すると言えます。
真実の同意は、わだかまり、赦せない気持ち、憎しみ、怒りを互いに理解し合い、赦し会って初めて成り立つものです。言い換えれば、その罪深さを主キリストにあって互いに告白し、赦された自分を深く反省してキリストにあって心の一致が備えられるのです。そこに共に礼拝をささげる「祈り」が真実に神に喜ばれるものとなるのです。
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:16−17)
あなた方の内、即ち、心の内にキリストを住まわせて下さる経験が、教会の祝福の基であると言えます。そこにこそ真実のキリストの祝福があるのです。教会の一致こそ、聖霊の力のあかしであり、キリストの贖罪の実であると言えます。リバイバルはクリスチャンの一致から始まります。主の十字架の恵みを崇めようではありませんか。
リバイバルは「祈り」によって始まります。
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18−20)
聖書は、「あなた方の内二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる。」と教えます。2人は最小の集団です。2人で心を合わせ、一つとなって祈るなら、活ける神は応答してくださるのです。
「聴かれる祈り」は、2人が共に祈る祈りです」その基本的真理は「一致」であるのです。
今こそリバイバルを求めて「一致」の祈りをささげようではありませんか。祝福は備えられているのです。


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