阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年10月1日
「豊かな御言葉の力」
ルカによる福音書10章38−42節

 「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』 主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」(ルカ10:38−42)

イエス様は、弟子たちと旅を続けて、「ある村」にお入りになりました。 そこは、先日の召天者記念礼拝でも共に読みしました、マルタ、マリア、ラザロの三人姉弟の家があるベタニアという小さな村です。ベタニアの村はエルサレムの東15スタジオン(約3キロ)ぐらいのところにあって、イエス様がエルサレムに来られるときによく宿泊されたようです。両親はすでに亡くなっていたようで、3人姉弟で生活していたようです。
イエス様は3人をとてもかわいがり、棕櫚の聖日にエルサレムへ入城されて、宮清めをなさった日も、べタニアに戻られてマルタの家に宿泊され、翌朝早くまたエルサレムへ向かわれました。
(マタイ21:17,18)
姉のマルタは母親代わりのように、2人の妹弟であるマリアとラザロの世話をよくしていました。
イエス様が来られたというので、マルタはいつものようにイエス様をもてなそうといろいろと気を配って掃除をし、食事の用意をしていました。妹マリアは、マルタがあわただしく働いているのを気にもしないで、イエス様のそばでお話を聞き、イエス様の教えに感動し、一言も聞き漏らすまいとしていました。姉マルタは、接待のために忙しくして心を乱していました。
とうとうマルタはマリアが何もしないで、いつまでもイエス様のそばで座っているので、イエス様に言ったのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)
マルタは、マリアが何の配慮もせずにイエス様の足元に座ってお話を聞いているので、イエス様にマリアのこの態度を何とも思わないのかという思いで、「イエス様、私を手伝うように言ってください」とたしなめたのです。
イエス様は、いらだっているマルタに言われるのです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41−42)イエス様はマルタをたしなめて、「あなたは心を乱している」と言われました。
イエス様をお迎えするときは、何をさておいても「必要なことはただ一つ」なのです。
マルタは、大切な、イエス様をもてなすことに心を使うことがイエス様を愛している自分の気持ちであり、最善の敬愛の心を表していると思いました。また、それが客への礼儀であると思っているのです。これがイエス様を敬愛している気持であったのです。
マルタはイエス様をもてなすことが人として愛する人への当然な思いであると考えていたのです。
マルタは、人がなすべき当然なことをしないマリアの態度に、イエス様は何とも思われないのかと批判的な気持ちをもっていたのです。当然、主イエス様はマリアを諌めて下さると願ったのです。
しかし、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」これが主の御言葉であったのです。ここでイエス様が「必要なことはただ一つだけである」と言われたその「必要」とは何であろうか。
マルタは、何をさておいても心せわしく接待の用意をすることが、主イエス様をお迎えする最善の行為であり、イエス様を「愛している」ことに他ならないと確信していたし、イエス様に寄り添い、何もしないマリアは、イエス様に対して失礼であることに気づいていないとも思ったのです。言い換えれば、マルタはイエス様を「愛していた」、だから、様々なおもてなしの準備が、イエス様を「愛する」ことと思い込んでいたのです。
 イエス様は、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われるのです。マルタはイエス様を愛していると思いながら、主は「そうではない」と言われているのです。「必要なことはただ一つ」であるのです。
イエス様の御言葉に聞き入っているマリアはたしかに何もしていないのですが、イエス様は、イエス様の御言葉を「聴く」事こそ、信仰の土台であり出発点であると言われているのです。
 ここで大切なことは、マルタは、主を「愛する」ことについてマルタが自分の考え方でマリアを批判しているのですが、信仰において最も大切なことは、主の御言葉を「聴く」こと示しておられるのです。聴くことがイエス様に対する愛なのです。
「聴く」こと、「主の御言葉、神の言葉を聴く」ことが、イエス様を愛する事であり、クリスチャンの最もなくてならないことであったのです。主の御言葉、その福音を聴くことによって、信仰が芽生え育つのです。そこで愛されている自分を自覚し、真実の神の愛を自覚できるのです。主の御心を心にとめて生きる信仰の基礎とし、主のみ旨にかなった、主に喜ばれる者となるのです。
 イエス様は「聴く」ことを不可避なこととして示されています。キリストに聞くことからすべてが始まり、全てが生成するのです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)
細やかなねぎらいの労も、温かいもてなしの心使いも大切なことですが、主の御旨を疎かにしては空しいことを主は教えられていると言えます。何をおいてもキリストの言葉を「聴く」ことです。人は、自己中心という罪を抱いています。キリストの御言葉なしに、真実の「神の愛」は見いだせないと言えます。
「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」
(Tヨハネ2:5)
キリストに聴くこと、それは敬虔に聴くことであり、謙遜に聴くことから神の愛が自覚でき、神を愛することを自覚できるのです。神の愛に生きる、そこに命がある。生きた信仰,主に喜ばれる信仰が成長するのです。
主に仕える前に、「御言葉」(聖書)の前に跪き、静まって主を仰ぎ、主の御心を「御言葉」を確信し、一番大切な奉仕である礼拝を重んじ、主に愛されている喜びを賛美しようではありませんか。主に栄光があるように!!

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