阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年10月8日
「悔い改めと祝福の人生」
ルカによる福音書19章1−10節

 「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』 イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」(ルカ19:1−10)
今年も10月になりました。月日は過ぎてみれば早いものです。私も11日には83歳になります。日本の平均寿命は男81歳、女87歳(西暦2016年)と言われています。私はすでに平均年齢を超えて生かされているのです。79歳(‘15年)の時に初期癌が分かり、部位が悪く、開腹手術しか治療方法がなく、手術を受けることになりました。朝8時から15時間もかかって無事に終わりました。医師の優れた技術と共に、皆さんの祈りに支えられて見事に回復致しました。その年、北陸聖会の講師に招かれていましたが、ご奉仕出来るのか心に迷いが来ましたが、主治医も「大丈夫行ける」と約束して下さり、その通りとなりました。
まだ、歩行も不自由で、椅子に座っての説教でしたが、声は健康な時と同じく元気にお話ができたのです。みなさんの陰の祈りが支えになったことを痛切に実感しました。この後、狭心症に続き、大腸の憩室炎出血で4度にわたる処置をうけ、身体機能が弱り、体が動かなくなってしまいました。昨年10月にやっと退院し、在宅療養になりました。退院して今年の元旦礼拝からメッセージを取り次ぐ奉仕に立っております。平均年齢80歳を超えてなお支えられてご奉仕できる事は感謝に堪えません。生ける主の御手によるものと感謝しております。ハレルヤ! 高度な医療もさることながら、命を支え、保ち、生かされるのは神様の御力であると信じます。人には、必ず、終わりがあるのです。しかし、イエス様を信じる信仰によって永遠の命に生かされるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
滅びる人生とは、終わる、消滅する人生を指しています。死を迎える時、全ての存在の消滅があるのです。死は空しく、儚く、切ないものです。しかし、永遠の命は見えないがあるのです。見えないが存在の根源が神様です。見えないが、存在するものこそ人を生かす力であるのです。人の肉体は食べることによって生かされます。どう生きるのかを考えるのは、人の自然な体の事だけではありません。心の思い、生きる道、見えないが心を支配する道があるのです。また、人は、人と共に生きる時、人間になると言われるように、二人が一つとなって、その愛し合う間に人としての基本的なあり方が示されていると言えるのです。言い換えれば「愛」によって人は人となると言えます。「愛」は見えません。見えないが「愛」がなくては夫婦が成り立ちえないように、男と女が「愛」に結ばれる時、新しい命が生まれると言えます。聖書に「神は愛なり」(Tヨハネ4:8)とあるように、神は見えないが存在し、全ての根源であるのです。
愛は孤独ではあり得ません。しかし、現実に生活する中で愛し合わなければ、生活が成り立たないのを知りながら、人間は裏切り、憎み、争うことがしばしばあるものです。そこでイエス様は真実の「神の愛」を示し、人の生きるべき幸せの「道」をお示しになったのです。人の生きる命の道を示し、神の示される真理の道をお示しになったのです。
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(ヨハネ14:6)人生は道であって、人それぞれの道を歩んでいるのです。しかし実際は誰でもその終わりは「死」であり、無に終わるのです。死は例外なくすべての人が迎えるのです。聖書は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23−24)と言っています。「人は罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と言っています。この「罪」という言葉は、聖書の言葉で「ハマルテアー」と言います、それは、「的はずれ」という意味であって、道をそれてしまっていることを言うのです。人の生涯は何らかの目的を目指して生きているのですが、その終わりは例外なく「死」であるのです。しかし、「イエス・キリストによって永遠の命の道を示されるのです。
 「人は皆、罪を犯して神の栄光受けられなくなっている。」(ローマ3:23)人は皆、人生の目的を見失い、本来あるべき神様の命、永遠の命を見失っているのです。「人の道」を踏み外している、目的を見失った「自己愛」に縛られているのが現実の人の姿であるのです。
 イエス様が、エリコの町に入られると、多くの人がイエス様の事を聞いて出迎えたのです。ザアカイは徴税人の頭で金持ちでした。イエス様を見ようとしたが、背が低いので群衆に遮られ(さえぎ)て見えなかった。そこにイチジク桑の木があったので登って見ようとした。そこの下を丁度イエス様はお通りになるのであった。イエス様はその木の下に来られると、ザアカイを見上げて『急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』(ルカ19:5)といわれた。ザアカイは素直に喜んでイエス様をお迎えしたのです。しかし、周りにいた群衆は、あの罪深い男のところに行って宿をとるなんてと言って非難したのです。
 徴税人は、ローマ帝国の占領下にあったイスラエルで、税金を徴収していた。徴税の仕方も徴税人の意のままで、情実が聞いた。徴税人はユダヤ人であり、同族から高圧的に徴税して嫌がられ、恐れられていた。徴税人は人から嫌われ、軽蔑され、人間として相手にされなかった。言い換えれば、徴税人は金持ちであったけれども「孤独」で、罪人として蔑視されていた。ザアカイはイエス様を喜んで迎え入れるとともに、イエス様はメシアであると思い起こし、身近に接して受け入れたのです。ザアカイは、「イエス様は真の神様の愛を示し,どんな人の罪をも赦されるという福音を聴いていた」と思われるのです。まず、ザアカイは、自分の過ちを思い返し、悪辣な徴税をして蓄財してきたことを反省し、財産の半分を貧しい人々施し、だまし取ったものを4倍にして返金することを告白するのでした。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19:9)と言われたのです。
 ザアカイは、イエス様の前に「罪」を告白し、「あやまち」を反省させられました。自分の行なってきた仕業を主の前に悔い改めたのです。「悔い改め」て心を入れ替え、イエス様の「恵み」、御心に生きる、歩む者となることを告白しました。言い換えれば「回心」する事です。ザアカイは、イエス様に出会い、迎え入れ、自分の生き方を反省し、豊かな生活をしながら孤独で、財産がありながら人に嫌われている惨めな自分に気が付いたのでした。人々への罪悪を思い出し、反省して償おうとするのでした。ザアカイは直接イエス様の招きを受けてその恵みの言葉に回心したのです。私たちは、主イエス様の歩まれた十字架の道を教えられてその真意を示されるのです。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Tペテロ1:8−9)。クリスチャンの誕生は、「回心」に始まり、日々罪過ちを「悔い改める」事によって、新たにされるのです。そこに勝利の道が約束されるのです。今年は2017年、宗教改革500年記念の年です。中世は、庶民は聖書を持っていない時代でした。388年にヒエロニムスという修道士によって原典からラテン語に翻訳されたのですが、印刷術のない時代で50冊だけ筆写して、教会や修道院に一冊づつ配布していました。ラテン語は学問の言葉として使われていて、庶民は教育を受けておらず、字が読めない時代でした。又、学者でも自分の国の言葉に聖書を訳すと死刑になるという時代でした。だんだんと信仰が歪められ、教会の教えは歪められていきました。
真実のイエス様の救いの教えは失われ、天国に行けるのは「罪」を許されてからであり、人間の功徳だけでなく、教会から発行する「免罪符」、罪の赦しのためのお札を買うことなしに人の罪は赦されないとする決まりを実行するようになったのです。時は移りすぎていきましたが、大司教の地位の売買やローマの聖ペテロ大聖堂の建築資金を『免罪符』で募金するようになりました。1516年頃、ドイツのヴァルトブルグ大学の教授であったマルチン・ルターはローマ書を生徒に教え始めていました。「義人は信仰によって生きる」という御言葉に触れて、「免罪符」は全く聖書の教えにもないでたらめである事に気付き、95か条の問題提起を掲げたのです。その第一題は、「われわれの主であり師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。」という言葉でした。真実の聖書の教えは、イエス・キリストの贖いを信仰をもって受け入れ、罪を悔い改め、「回心」することでありました。そして日々の歩みの過ちを「悔い改める」事こそ、クリスチャンの生涯であると説いたのです。やがてルターは論争と告発の中で排斥されますが、その教えに共鳴する君主や庶民が支えとなって、後にルターはドイツ語に聖書を訳し、丁度活版印刷が発明されてドイツ国民が読めるようになるのです。信仰はイエス・キリストの十字架の贖いを信じることから始まる事が確信されるようになるのです。その最も大切なことは第一に「回心」であり、日々の「悔改め」による十字架の救いなのです。信仰の年月がいかに積み重ねられるとも、キリストの十字架を見上げて,悔い改めの生涯をおくり、日々を新しい命に溢れて前進しよう。感謝!


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