阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年10月29日
「恵みにより信仰によって救われた」
エフェソ2章4―10節

 人にとって決してなくしてはならないものは、神による救いであり、永遠の命です。この世で栄華を誇ったとしても、人は必ず死ぬという定めがあるのです。
永遠の命がなければ、この世で栄耀栄華を窮めたとしても一切は無に帰するのです。
10月31日は、マルチン・ルターによる宗教改革記念日です。そのいきさつについては、廣瀬牧師がアッセンブリー誌の9月号に詳しく記載しています。
宗教改革のきっかけになったのは、当時の教会や教皇の大きな権力によって莫大な富を得ようとする動きでした。聖職売買が平然と行われ、それは、この世の富と権力を握ることに繋がっていたのです。
教会はキリストの福音とは、まったくかけ離れた世俗的な存在となっていました。
神の御言葉が無視されると、人はどんどん間違った方向に行ってしまいます。御心とはかけ離れた罪の道にそれていってしまうのです。
教皇も大司教も神の存在は信じていたでしょう。しかし、思いも心も行動も御心とはかけ離れていました。それでは正しい御心を人に説くことはできません。
「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ヤコブ2:19)という御言葉があります。神を信じていると言いながら、信じるだけならば悪霊でさえそのようにしているという事なのです。
 人は誰でも生まれながらに罪深い存在です。自分中心な心を持っていて、真の神に立ち帰ろうとしない者なのです。
 人の世の争いや悲しみの多くの原因は罪によるものです。自分は正しい者であると考え、他の人を貶めるようなことが多いのです。神が問われるのは、心の中の罪です。主イエスは、「人から出て来るものこそ人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:20−23)と、言われたのです。
中世の教会は罪の許しを得るために、悔い改めの告白(懺悔)、許しのために、祈りと、断食、施しを教えました。さらに、罪が赦され天国に入るには、教会が定めた「苦行」が必要であると教えたのです。これは本当に苦行であって、パンと水だけで数年を過ごしたり、何年も巡礼の旅にでなければなりませんでした。
人々はこの苦行を免れる方法はないかと思いました。また、教会側でも何かの報酬によって苦行を赦す方法を考えていきました。例えばイスラムに対する戦争に参加した者には特別に罪の許しを与えると言った事で、行いによって罪が赦される、または軽減されるといった事でした。
さらに、贖宥状(しょくゆうじょう)(免罪符)を発行し、それを買うことによって、地獄の刑罰を逃れると教えるようになりました。
テッツェンという修道士が雇われ、町々で贖宥状が売られました。テッツェンによって、教会で地獄の刑罰が語られ、人々に恐怖の思いが与えられた後、「金が箱の中で音を立てるや否や、魂は地獄から解放される。見よ、天は開けた。今でなくてはいつ入ることができよう。」と叫びました。人々はこぞって贖宥状を買い求めたのです。
ルターはこのような状況を聞き、「このような贖宥状によって魂に許しが与えられるような教えには、何の根拠もない」と説教していました。1517年2月には、「贖宥状は、人々に罪そのものを恐れさせるのではなく、罪の刑罰を恐れるように仕向ける。人は罪の報いは受けなくてはならない。だからこそ十字架にすがるのだ。」と教えていました。
ルターは、1517年10月31日、ヴィッテンベルクの城教会の門に95ケ条の提題を張り出しました。
「我らの主にして師なるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言い給う時、彼を信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうた」。
当時の教会の指導者たちが何を教えようとも、「主イエスは何と言われているか」ということですべてが決まるのである。もし、教皇が魂を救う権威をもっているなら、金を要求するのでなく、なぜ魂を解放してやらないのか。「本当に悔い改めたキリスト者は、すべて贖宥状なしで罪と罰から完全にゆるされる。教会の宝は、神の恩恵と栄光の聖なる福音である。これこそ真の贖宥状である」と訴え、ただイエス・キリストの福音のみが人を赦し救うと強調したのでした。
 当時の教会がこのように大きく異なる福音に傾き、人々に正しい福音を伝えられなかったのは、まず神の御言葉に聴くことがなかったためでした。
確かに聖書はあったのですが、教会はその聖書を正しく聴き、人々に教えることがなかったのです。教会の権威を重んじ、聖書の真理に心を向ける事が出来ませんでした。ルターは、イエス・キリストの十字架の贖いによって人の罪は赦され、永遠の命を得る事ができると確信し、教会の改革に取り組みました。
その後、さまざまな問題の中にも、聖書をドイツ語に翻訳したり、さまざまな著作を通して、真理の福音を表し続けました。
エフェソ4章2節には、「憐み豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪に死んでいたわたしたちをキリストと共に生かしーあなたがたの救われたのは恵みによるのです」(エフェソ2:4、5)とあります。
神は憐みと愛に満ち溢れた神であって、人の罪のために御子を遣わされ、十字架の贖いによって、救い、永遠の命に生きるものとして下さった。神の愛という理由で人は救われるのです。救いは神の愛の表れであり、恵みによるのです。
しかもキリストと共に天の王座に着かせて下さいました。罪人であった者を赦し、義とし、神の子として、キリスト共に天の王座に着かせるとは、なんという恩寵でしょうか。何か良い事をしたことによるのでもなく、何も持たない者を天の王座に着かせて下さったのです。これはただ神の賜物なのです。
これは、神が備えておられる良い業を行うためであると、御言葉は続いています。神があらかじめ備えておられる良い業とは、わたしたちが「神に造られた者」であることと密接に関係しています。
神は限りない愛を表しておられます。神に造られ新しい命を頂いた者は、この神の愛の中に生かされ、神が愛であることを具体的に生活の中であらわしていくこと、これこそが真の福音に生きること、良い業に生きることではないでしょうか。しかも、それは神が用意してくださっているのです。
恵みにより、信仰によって新しい命に生きる者の生活は、神の愛を表す生活なのです。
ルターは、1546年、故郷アイスレーベンで天に召されました。その直前まで多くの説教をし、また、紛争解決のために働き続けていました。
心臓の発作を起こし、「神はそのひとり子を賜ったほどに世を愛してくださった。それはみ子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と祈りつつ、天国の確信をもって召されたのでした。1483年の生まれでしたから、63歳の生涯の間に、神の真理を取り戻し、御言葉の光を輝かせ続けました。
主イエスの十字架こそが、救いの道です。十字架以外に救いはありません。
救われたことを何よりの喜びとし、神が備えておられる良い業に用いられる者であり、生涯が悔い改めの生涯であるように、祈り、御言葉を聞き、キリストを崇めていきましょう。


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