阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年11月5日
「信仰の確信」
ルカ7章1−10節

 主イエスの御生涯は町々、村々を巡られて、罪と病から人々を解放する救い主としての御生涯でした。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4:23)とあります。公の生涯に入られた時の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。だれでも救われる時が来たのだから、心を変えて福音、イエス・キリストを信じなさいという招きです。
主は多くの人々を教え、癒し、その後、カファルナウムにお入りになりました。ほっとする間もなく訪れる人々がありました。それは、ある百人隊長から遣わされた人たちでした。百人隊長とは、文字通り、ローマの兵士たちを百人統率する役割を持つ軍人です。この百人隊長が重んじている部下が病気で死にかかっていました。マタイの並行記事を読むと、「僕」となっています。
百人隊長が、わざわざ主イエスの許にユダヤ人の長老たちを向かわせて嘆願させていることから、病気をしているのは、ローマ人ではなく、ユダヤ人の僕であると考える事ができます。
 当時のローマ帝国は、僕は人ではなく、生きている道具としかみなされていませんでした。ですから、病気になって役に立たなくなれば、捨ててしまうのが当たり前でした。
ところが、この百人隊長は、癒しの業をされている主イエスの事を聞き及び、ユダヤの長老たちを遣わしたのでした。この長老たちは、無理やり遣わされたわけではありませんでした。百人隊長はとても親切でユダヤ人を愛し、会堂を建ててくれたと証言したのです。ユダヤ人たちも役に立ちたいと願い、熱心に主イエスに助けに来てくれるよう頼みました。主イエスは、「私が行って癒してあげよう」と言われて、出かけられました。
 しかし、まだ家に着く前に、百人隊長は友人を遣わして、「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えばその通りにします。」(ルカ6−8)と伝えました。
当時、ユダヤ人は異邦人の家に入ることはありませんでした。百人隊長はそれを知っていたので、途中で友人たちを主の下に遣わしたのです。
ローマの百人隊長でありながら、彼は非常に愛に富み、親切で謙遜でした。自分には、「主イエスをお迎えする資格はない」ので、友人に行ってもらったのです。
 人が陥りやすい弱さの一つに、知らず知らずのうちに高慢になるということがあります。自分の地位や名誉、富などを誇り、自分が偉い者だと思いこんでしまう事です。ユダヤを支配しているローマ帝国の地位のある軍人であるなら、人を見下し、支配することに慣れているはずでした。僕一人を失ったところで、すぐにもっと元気な僕を得ることが出来たはずです。
しかし、一人の僕のために身を低くして主イエスを求めたのです。
彼は、価値のない者、最も低い者とされていた僕に心を使いました。これは、主イエスに通じる心です。正しい人、善い人のためではなく、どうしようもない罪人のために主イエスは来られ、十字架に架かり、愛を示して下さいました。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:6−8)
正しい人、情け深い人のためにであっても、死ぬ人はほとんどないが、キリストは、まだ罪人であった時、わたしたちのために十字架で命を捨てて神の愛を示して下さいました。価値があるのではなく、罪しか持ち合わせていないような者を愛し、命を捨ててくださったのです。僕が道具であるなら、いくらでも取り換えれば済むのです。しかし、百人隊長は僕を憐み、愛を示してなんとか助けたいと願ったのです。
百人隊長は、主イエスの権威を信じていました。自分も権威の下にいると語りました。百人隊長の上には千人隊長などと呼ばれる階級の高い軍人がいました。使徒の働き21章、22章には、パウロが捕らえられて大騒動になっている記事の中で、千人隊長が登場していて、百人隊長の上に立っています。彼らは上官の命令は無条件で直ちに聞くのです。また、上官に様々な指示を仰がなければなりませんでした。
百人隊長は、自分が部下に命令したことは直ちに実行されるという権威を持っていました。権威とは、力です。
 主イエスの権威とは、罪を赦し、魂を救い、病から解放する力なのです。
百人隊長は、主イエスの言葉には権威があり、救いがあると心から信じて確信していました。ですから、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と願いました。キリストの言葉には力と権威があるのです。彼は固く信じていました。僕はいやされました。そして、主イエスは百人隊長の信仰を称賛され、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。
 主イエスの許しと癒しの宣言を固く信じ、素晴らしい恵みにあずかることが出来ました。
これらの事から私たちは、あらためて信仰について考えさせられるのです。
主イエスが救い主である事、全能の神であられることを固く信じているでしょうか。価値のない者、罪人を愛し、常にご自身に招いてくださっていることを信じているでしょうか。罪を赦し、永遠の命を下さったことを確信しているでしょうか。
昨日は三浦綾子読書会があって、海嶺(中)から学ばせていただきました。
千石船が嵐に遭い、一年以上も漂流して北米のフラッタリー岬に漂着した音吉、久吉、岩松3人の物語です。先住民族に助けられ、しかし奴隷として働かなければなりませんでした。なんとかその境遇から逃れる手段として、日本語で救出を求める手紙を書き、ある部族に委ねました。日本語を読める人がいるわけがないし、その手紙がどこに届くのかも分かりませんでしたが、しかし、助けがやってきたのです。手紙は、先住民族の手から手へと渡され、イギリスのハドソン湾株式会社の手に渡り、無事助け出されてマカオへ送り届けられました。やがてマカオでギュツラフの日本語聖書翻訳に用いられることになりました。彼らはキリシタン禁止の時代であったので、キリスト教の信仰にふれる事を非常に恐れましたが、神の見えざる手は彼らを導き続けました。誰に渡るか、誰が読むのか全く分からなかったが、希望をもって一歩踏み出した時、そこから救いの道が開かれていきました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(ヘブライ11:1)3人の内、音吉と久吉は受洗したという記録が残っています。
主イエスに対するゆるぎない信仰は勝利をもたらします。救いと癒しを頂けるのです。平安と喜びに満ち溢れ、生きておられる主イエスを体験し続けるのです。  主イエスに望みを置くときに決して失望することはない、このすばらしい約束をしっかりと握り、固く信じ主の栄光を現す日々を求めましょう。


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