阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年11月12日
「希望の源」
ローマの信徒への手紙15章1−6節

 主イエスを救い主として信じ、心に受け入れた者は、その生き方が全く変えられます。何も変わらないのなら、もう一度主の前に祈りなおさなければならないのではないでしょうか。その変化は、生活の中のほんの小さな変化かもしれません。また、大きく変化するかもしれません。小さくても大きくても、共通するのは罪からの解放と、永遠の命に生かされる喜びの実を結ぶという生活に変わることです。
ある若い娘さんが主イエスを信じました。その人は、お父さんを亡くし、お母さんと二人で暮らしていましたが、喧嘩が絶えませんでした。たった二人、しかも母子なのに、何かと行違ってしまうのです。
ある時、娘さんが教会に行くようになりました。熱心に通うようになったのです。お母さんは娘さんに、「この頃熱心に教会に行くけれど、それが何になるのか」と言いました。娘さんは少し考えて、「お母さん、私達喧嘩をしなくなったでしょう」と答えました。以前は何かというと口論をしたり、何日も口を利かなかったり、不愉快な日々が多かったのです。ところが気が付くと最近喧嘩をしなくなっていました。それは、娘さんが主イエスを心に受け入れた時から、平安と喜びに満たされ、反発する心が癒されて、母親を思いやり、母親に感謝する心で生活するようになったからです。母親も改めてその変化に気が付きました。穏やかな日々になったのです。二人きりの家庭に平和が訪れたのです。数年後には母親も救われて、クリスチャンホームが誕生しました。小さな変化のようでも大きな救いの業がこの家庭にもたらされたのです。
 パウロは、ローマ書15章1節で、「わたしたち強い者は」と言いました。強い者とはどのような者なのでしょうか。わたしたちは、つい遠慮して「私は弱い者です」と言いたいのですが、ここで強い者と言っているのは、主イエスの十字架の贖いによって、罪は完全に赦され、解放され、キリストの復活の命に生かされているという確信を持っている者の事です。
「弱い人」とは、旧約の律法の食物規定からなかなか抜けきれない人々を表します。新約、即ち新しい契約を主イエスがもたらし、食物規定から解放されたのですが、しっかり身についてしまっていました。使徒の働き10章では、神がコルネリウスの許へペトロを遣わす際のエピソードが記されています。ペトロは、大きな布のような入れ物の中に清い動物も、汚れた動物もあらゆるものが入っているのを幻で見ました。「ペトロよ、それらを屠ってたべなさい」という声があったのですが、ペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えました。すると、「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒10:15)という声があったのです。同じことが3度もあって、ペトロが何の事だろうと思っていた時、カイサリアのコルネリウスからの使いがやって来て、異邦人であるコルネリウスの家に遣わされて、福音を伝える事になりました。ペトロでさえ、食物規定に縛られていましたが、神は解放して下さり、豊かに用いてくださいました。神は誰でも救って下さるのです。
「強い者」は、「強くない者」の弱さを担えと、15章1節にあります。担うとは、物を肩で支えて運ぶことです。自分の方から積極的に肩を差し出すようなニュアンスを感じる事ができます。弱さを覚えている人がいたら、自分から肩を差し出し、共にその弱さを担いで行きなさいという勧めです。
主イエスの福音は、人間の自己中心からの解放です。人は生まれながらに自分中心で、自分を喜ばせる事を最優先にしたいという性質を持っています。
御言葉は、「自分の満足を求めるべきではなく、おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」(15:1,2)と教えています。家庭でも、職場でも、もちろん教会でもそのようにしなさいと教えているのです。互いに「弱さに肩を差し出す」時、神の国が表されます。
口で「愛」を語っても、愛の表れがなければ、愛ではないのです。神はその愛を主イエスの十字架であらわして下さいました。
主イエスは、そしり、即ち十字架で嘲りを受けられて、贖いを完成してくださいました。主は、メシアとして来臨されましたが、その生涯の中でご自分の満足を求める事はありませんでした。むしろ、「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53:11)とある通り、十字架の苦難の実、罪が赦され、義とされる者たちを見て満足されるのです。
キリストに救われた者、隣人を喜ばせ、弱さを担おうとする者は、御言葉によって教え、導かれます。
担おうとする物が負いきれないと思われる時も、御言葉から忍耐と慰めを学び、希望を持ち続ける事ができます。
ここで言われている忍耐とは、ただ耐える事ではありません。解決することがおできになる方の解決を信じて待ち望むことなのです。困難や弱さの中にある時、肩を差し出す人がいてくれたら、どんなに励まされる事でしょうか。それをしてくださる方がおられるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28−30)この御言葉はあまりにも有名な御言葉です。
主イエスは絶えず肩を差し出してくださっています。私のもとに来なさいと言われるのです。主イエスに期待する時、決して失望に終わることはありません。
一番素晴らしい方法とタイミングで答えが与えられ、喜びに満たされます。
主イエスの招きは「誰でも」来なさいという招きです。休ませてくださると言われるのです。軛とは、二匹の牛が首をつないで一緒に畑を耕すような道具です。主イエスが言われる私の軛とは、体にぴったりと合った軛で、首をこすったりしないようにできていると考える事ができます。私の軛とは、主に結ばれて主に従いどこまでも行くことができる自分にぴったりの軛なので、苦しい事もありません。
私達は、主イエスの御言葉から忍耐と慰めを与えられ、希望を持ち続けることが出来ます。多くの困難や苦しみがあるかもしれません。人生は楽しい事だけではなく、苦しい事も多くあります。しかし、聖書は希望を持ち続けることが出来ると約束しています。イエス・キリストにある希望です。苦しみにある時、私達は主イエスの慰めを体験することができます。天の父は、忍耐と慰めの源であられるお方なのです。苦しみにあっても、神は互いに同じ思いにしてくださり、一つとして下さるのです。
私達は一つになり、心を合わせて真の神、父なる神を褒め称える事ができるのです。この心を合わせという言葉は、ローマ書ではここ一か所だけに使われている言葉ですが、使徒の働きの中では何回も使われている言葉です。心を合わせる時、神の御業が豊かに現されたのです。
五旬節の日に、主の弟子たちは「一つになって」祈っていました。心を合わせて主を待ち望みました。その時、不思議な御業が起こり、一人一人の上に聖霊が下りました。ペトロは人々に、主イエスが約束された聖霊が降った事、主こそメシアである事、主の十字架と復活を力強く語りました。その日教会が誕生し、救われた者が3000人起こされたのです。すばらしい御業がなされ、使徒たちは用いられたのです。心を一つにし、希望を持ちつづけるなら、教会でも家庭でも主の豊かな御業と祝福が満ち溢れます。心を合わせ、声をそろえて父なる神、真の神、命の神を褒め称えましょう。




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