阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年11月19日
「十字架の言葉」
マタイ4章1−11節

 今年も早いもので11月も半ばを過ぎ、残すところ一か月余りとなりました。12月3日からアドベントを迎えます。心から主の御降誕をお祝いし、主を待ち望む日々としたいものです。
主イエスは、約束されたメシア(キリスト)としてお生まれ下さり、33年半という御生涯の間、人々に福音を伝え、罪の許しと永遠の命を宣言されました。
主イエスはヨルダン川で洗礼を受けられてすぐ、御霊に導かれて荒れ野に行かれました。主イエスはここでサタンの誘惑を受けられ、それに打ち勝たれました。
主はこの荒れ野で40日40夜断食をされて、空腹の極みであった時、三つのサタンの試みに会われたのです。第一は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)であり、第二は主イエスを神殿の屋根に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」と、詩編91編の御言葉を引用してたくみに試みたのです。
第三に、サタンは世のすべての国々と繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。
主イエスは、これらをことごとく撃退し、サタンは退き、天使たちが来て主イエスに仕えました。
主イエスがなぜ試みを受ける必要があったのでしょうか。主イエスは神の子でありながら、この地上では完全な人であられました。ダビデの末裔としてマリアを母としてお生まれになりました。罪とは関係ないお方でしたが、人と同じように試練を体験されたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)とあります。
公の御生涯を前にして、試みに打ち勝たれて歩み始められました。
 私たちも時として試練に苦しむことがあるでしょう。しかし、主イエスは試みに会われて完全に打ち勝ったという事実に目を留めなければなりません。
サタンは、空腹で体も弱っていたであろう主イエスに、「神の子なら石をパンにかえるよう命じたらどうだ」と言ったのです。これは、まず主にあなたは本当に神の子なのか囁く声なのです。私達にもサタンは、「お前は本当に神の子なのか」とささやくことがあります。サタンは、試みる者であり、訴える者なのです。本当に救われているのか、本当にクリスチャンなのかと私たちの弱さを指摘して訴えて来るのです。
 今年はルターの宗教改革500年という事で、宗教改革やルターについて多く語られ、さまざまな記事が載せられた年でした。ルターはヴァルトブルグ城にかくまわれていた時、聖書をドイツ語に翻訳しました。サタンはルターの信仰や改革や聖書翻訳などの確信が揺らぐように働きかけてきたのです。ルターは「主イエスの血はすべての罪から我らを清める」と叫んで、インクツボをなげつけたという事が言い伝えられています。神の栄光の為に働こうとするとき、サタンは試みるのです。
 主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)とお答えになりました。この御言葉は、申命記8章3節の御言葉なのですが、これは、出エジプトをしたイスラエルが荒野で40年の試みを受けなければならなかったことの説明の中で語られている御言葉なのです。イスラエルは不信仰のためにヨルダン川を渡って約束の地に入ることが出来ませんでした。荒れ野で40年の訓練を受けなければならなかったのは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)とあります。
試みはつらいものです。しかし常に恵みも共にあるのです。神は荒れ野でマナを降らせ、水を与え、養い続けてくださいました。これからいよいよヨルダンを渡る時、「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子供を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい」(申命記8:4−6)と教えられたのです。
荒れ野の40年の間、着物も古びず、足もはれなかったとは、常に神が共におられて守り支え、試練に耐えられるように助けて下さり、目的の地を目指すことができるようにして下さったという事なのです。私たちも、試みの目的は「主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」ということをしっかり心に留めなければなりません。
 サタンは第二、第三と主イエスを試みました。神殿の屋根から飛び降りたらどうだ、また、世の栄華のためにサタンにひれ伏すように誘ったのです。
 主イエスは、神が助けてくれるかどうかを試みたり、わざと危険な行為をして神の助けを待つ事などは正しくない事と言われました。「神を試みてはならない」のです。神を試すことほど不敬虔なことはありません。また、やがて過ぎ去っていくこの世の栄華は主イエスの業には何の意味もなく、「主を拝み、ただ主に仕える」(マタイ4:10 申命記6:10)ことこそ神が求めておられる事であると示されました。主イエスは、「退け、サタン」と言われて、サタンは退いたのです。
 私たちは、日々神の口からでる御言葉によって生かされていることを覚えなければなりません。先ほどの荒野での40年の間、イスラエルが守られ養われたように、私達も体が養われるための日ごとのパンが与えられています。主の祈りの中にも「日ごとの糧を与えてください」という祈りが教えられています。しかし、もしパンだけ、即ち、地上の必要だけを求めるなら、父なる神をパンだけ与えてくださるお方としか考えられないようになってしまうのではないでしょうか。恵みが当たり前になってしまい、感謝する事すら忘れてしまうかもしれません。まず必要なのは、神の言葉であり、それは命のパンなのです。
主イエスが試みに遭われ、打ち勝たれたのは、十字架の道をまっすぐに歩まれるためでした。すべての人の贖いとしてご自分の命を捨てる事が主イエスの目的でした。
主イエスはご自分を「命のパン」と紹介され、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)と言われました。
私達は、主イエスが十字架だけをただ見据えて、人々の救いのために前進される御心を知ることが出来るのです。
サタンが「あなたは本当に救われて神の子とされたのか」と問い、主イエスではなく、私が提供する世の栄華を選べと誘う事があるかもしれません。
その瞬間、私達は主イエスを仰ぎ求め、主イエスの命の御言葉によってその誘いに勝利することができるのです。主イエスが勝利されたように、私達もすでに主の十字架の言葉によって勝利し、生かされていることをあらためて確信することが出来ています。主イエスは命のパンです。主イエスご自身をさらに求めていきましょう。
永遠の救いを、永遠の命を感謝して、さらに主の栄光を褒め称えて進んでまいりましょう。
 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)




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