阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年11月26日
「後の者が先に」
Tコリント1章26―31節

 今日は11月最後の礼拝の礼拝です。来週からアドベントに入ります。クリスマス前の4週間、私達のためにお生まれになった救い主を迎える用意を致します。様々な準備は大切ですが、さらに、自分の内にしっかりと救い主をお迎えするために、魂の備えをし、信仰を顧みる時であることを覚えてまいりましょう。
パウロが第二回目の宣教旅行をした折、はじめてヨーロッパでの伝道に導かれました、迫害は激しかったのですが、フィリピで最初の御業が起こり、テサロニケ、ベレア、アテネそして、コリントでの伝道がなされました。
 コリントにはユダヤ人たちが大勢住んでいました。パウロはユダヤ人たちにも、メシアはイエスであると力強く証しましたが、ユダヤ人たちは反抗し、口汚く罵りました。それで、パウロは服の塵を払い、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」(使徒18:6)と、異邦人伝道を宣言しました。この町で主イエスは、パウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9、10)と語られました。パウロは1年6か月の間コリントで伝道したのです。この時、コリント教会が建て上げられました。
 後にエフェソにいたパウロは、このコリント教会でさまざまな問題があることを聞き、「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」(Tコリント1:10)と、書き送りました。主イエスの教えをしっかり聞くなら、同じ思い、一つになれるのだと教えています。教会の中の問題は、主の御言葉に心を閉ざし、皆が自分の考えが中心になる時におこると教えています。
 人は自分勝手で、自己中心な存在です。自分が正しく人が間違っていると考えてしまう弱さを持っています。コリントの教会の人々は、自分の考えが正しいと思い込み、裁き合うようになり、礼拝もばらばらになってしまいました。
 そのような中、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」(Tコリント1:26)と、お互い兄弟であることを思い起こさせ、「召された」すなわち、救われて神の子にされた時のことを思い出すようにと勧めました。
イザヤ書51章には、「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思い見よ」(51:1)という御言葉があります。どのような状態の中から神に召されてキリスト者となったかを思い返しなさいという御言葉です。コリント教会には、家柄の優れた人や、能力のある人、知恵のある人が多かったわけではありませんでした。この世の中において優れていると評価されるような人は多くいなかったとあるのです。27節以下では、「知恵ある者に恥をかかせるため、力ある者に恥をかかせるため、地位のある者を無力な者とするため」世の無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者を選ばれたとあります。
これは、誰一人神の前で誇ることがないようにするためなのです。
この世の知恵では真の神を見出すことはできません。神が私たちを愛されてその独り子主イエスをこの世に賜った。神が人になられてすべての人の罪の代価を払うために十字架に架かられ三日目に甦られた。信じる者の罪を赦し、永遠の命を与えてくださった。これが福音です。神は宣教という、ある意味愚かとも考えられる方法で信じる者を救おうと考えられたのです。
私たちは、12月17日にはゴスペルコンサートを致します。伝道の為です。GGCの活動が始められ、続けられているのは伝道のために用いられたいと願うからです。ゴスペルを歌う楽しみが第一の目的ではありません。ゴスペル(イエス・キリスト)を告白することによって、魂の救いがあるようにという祈りの活動です。ゴスペルコンサートのためにたくさんチラシを作り、新聞に折り込み、また、一軒一軒配るのは伝道です。隠れた奉仕もたくさんあります。世の中の人はこのような活動を愚かと思うかもしれません。一体だれが信じるというのか。そのような事をして何になるのかと思うかもしれません。
クリスマスにはファミリークリスマスやクリスマス礼拝に出席してほしいと人々をお誘いします。それは、主イエスだけが救い主であり、この方による以外に救って下さるお方はいないという事を伝えたいからなのです。
クリスマスシーズンだけではありません。いつでもどんな時でも何とかして人々にイエス・キリストを伝えたいと願います。世の人は愚かと思うかもしれません。知恵ある者と自認する人はあざ笑うかもしれません。「もっと効率的に、もっと知的にすればよいのに」と言うかもしれません。しかし、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Tコリント1:25)とあるのです。
ただひたすら福音を伝えるなら、神の栄光を見るのです。
聖書は度々世の中の考え方と全く違う考え方を示します。もし私たちが何かを選ぶとしたら、一番良いものを選びたいと思うのではないでしょうか。しかし主イエスは無に等しい者を選ばれるのです。普通世の中の知者が先にいる者だとすれば、無に等しい者は後にいる者と考える事ができます。
マタイ19章に、ある青年が登場します。彼は、主イエスに近づき「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16)と質問しました。主イエスは、「律法を守るように」とお答えになりました。「どの掟ですか」と彼が尋ねると、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」とお教えになりました。するとこの青年は、このようなことはみんな守って来ました。まだ何か欠けているのでしょうか」と言ったのです。主は、「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(マタイ19:22)とあります。
彼は富んでいました。家庭環境も良かったようです。何不自由なく育ち、律法を良く知り、そのように行ってきたという自信がありました。自分には欠けた所がないので、主イエスに自信をもって近づき、質問することが出来たのでしょう。自分は先にいる者と思っても当然のような人でした。ところが主イエスは、「もし完全になりたいのなら」と言われたのです。「完全である」と思っていたのに、「あなたは完全ではない」と言われたのです。持ち物を売り払って貧しい人に施し、それから私に従ってくるようにと教えられて、悲しみながら主イエスの許を立ち去りました。富を失うことが出来なかったのです。持ち物、即ち、この世の物に頼らず主イエスにのみ頼るということを受け入れる事ができませんでした。先にいる者と思っていたのですが、主イエスに従う事について、後になってしまいました。
何も持たず能力に欠け、貧しかったとしても、主イエスこそ私の神、頼るべきお方、従うべきお方、賛美をささげるお方として愛し、従い続ける者は、先にいる者として受け入れられるのです。主イエスは、神の知恵であり、義と聖と贖いとなって下さいました。「誇る者は主を誇れ」(Tコリント1:31 )という御言葉は、エレミヤ9章の引用です。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ9:22,23) 主イエスを誇りとし、後の者を先に立たせて下さる主を崇めましょう。




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