阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年月日
「備えよ」
Tペトロ5章7−11節

 今年も今日からアドベントに入りました。アドベントは「到来」という意味で、救い主の御降誕を待ち望み、備える時です。
キリスト教会は、アドベント直前にクリスマスの飾りつけをはじめます。しかし、信仰とは関係のない街の中では、年々飾りつけが早くなっていて、私が通っている医療機関では11月半ばにもうクリスマスツリーが飾られていました。たぶん節句の飾りのように季節の装飾となっているのだろうと思います。
主イエスが降臨されたクリスマスを前に私たちがなさなければならない備えとはどのようなものなのか、御言葉から学びたいと思います。
私達は救い主を信じ、罪を赦されて永遠の命の中に生かされています。神の愛の中に生かされているのです。常に恵みがあり、守りがあり、本当に感謝の日々を送っています。試練があっても、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」(Tペトロ5:7)とあるように、なにもかも委ねて生きる事ができます。両親は幼子から目を離しません。良い両親は、幼子に危険が迫った時、素晴らしいタイミングで助け支えます。必要もないのに手をかけるなら過保護になってしまい、また、必要な時に助けなければ悲劇につながってしまいます。
私達の真の神は良いお父さんです。私たち一人一人の必要を知っていて、丁度良いタイミングで手を差し伸べてくださるお方なのです。ですから、何も心配する必要はありません。真の神が心にかけていてくださるということほど幸いな事はありません。思い煩いは無用なのです。
ところが、敵である悪魔が「ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っている」とあるのです。悪魔という存在はなかなか狡猾です。ある時には恐ろしいライオンのように恐怖を与え、また、ある時には「光の天使を装おう」(Uコリント11:13)とあるように、やさしく耳ざわりの良い言葉や態度で惑わす事をするのです。エデンの園で言葉巧みにエバを騙したサタンですが、主イエスは、「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:44)と、サタンは偽りの王と言われました。サタンの目的は、主イエスの救いから人を引き離し、滅びに向かわせることなのです。
御言葉は、まず、「身を慎み目を覚ましているよう」(Tペトロ5:8)と教えています。身を慎むとは、「酔っていない」という意味があります。ですから身を慎むとは、目を覚ましてしっかりと主にあって歩みなさいという事なのです。ペトロ1章13節には、「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」とあり、また、4章7節にも、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」とあります。キリストにしっかりと結ばれ、目を覚まして祈り、従っていくことが勝利の秘訣であり、主イエスが来られるまで持つべき信仰の姿勢であると教えているのです。
次に、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(Tペトロ5:9)とあります。しっかり踏みとどまるとは、建物の基礎が固くて、何があっても揺れ動かないという意味です。Tコリント15章58には、「固く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(口語)とあります。イエス・キリストという土台に堅く立つなら、サタンが威嚇しても、やさしくささやいても信仰を脅かされることはありません。さらに、抵抗するようにともあるのです。「だから邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯として腰にしめ、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(エフェソ6:13−17)とあり、さらに御霊によって根気よく祈り、執り成しなさいと教えています。これは、パウロが当時のローマの兵士の軍装をなぞらえているのですが、主キリストご自身を着て、キリストにしっかりと結び合う事を勝利の条件として教えています。
身を慎み、目を覚ましているために、キリストの武具をいつも身に着けていることです。そして、「目をさまして」聖霊によって常に祈る事をわすれてはなりません。
さらに、「身を慎み、目を覚ましている」という教えは、キリストの再臨にかかわる教えとして記されていることに注目したいのです。
主イエスが最初にこの地上に来られたことをお祝いするのがクリスマスです。これを第一降臨といいます。主はやがて再び来られることを約束されています。
主イエスがオリーブ山から昇天された時、天使は「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)と語りました。主イエスご自身も、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの天の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:1−3)と約束されました。主はやがて信じる者を迎えるために来てくださる。これが再臨です。
今日与えられた御言葉は、主イエスが来られるという再臨の慰めの中で記されている御言葉なのです。
クリスマスを待ち、備えるとは、再び来られる主イエスを待つための備えなのです。
主人の帰りが遅いと思って、自分勝手なことをしてしまった不忠実な僕の例え話がマタイ24章45節以下にあります。主人が留守の間、忠実に職務を果たす賢い僕はだれだろうかと話が始まります。この僕の役割は、時間通りに他の使用人たちに食事を与えるという役割でした。悪い僕は、主人は遅いと思って仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしていると、突然主人が帰ってきて、厳しく罰せられてしまうのです。主人の帰りがいつなのかわからないけれども、命じられた通り忠実に役割を果たす僕は賢い僕であると評価されています。それは、主人を愛するので、その言葉に忠実であるのです。悪い僕は、まだまだ時間はたくさんあるから、主人が帰りそうになったら急いで役割を果たせばよいと思ってしまったのです。高慢と世の中の喜びに浸ってしまいました。
主の御降誕から2000年以上がたちました。なかなか主はおいでにならないと、眠り込んでしまったり、自分勝手にしていると、予想もしない時、思いがけない時に主はおいでになると、聖書は教えています。
クリスマスのために備えるとは、再び来られる主イエスを待つための備えであることを覚えましょう。そして、それはクリスチャンの常であることを忘れてはならないのです。
主イエスは、あらゆるめぐみの源であられるお方です。この方によって救われ、神の栄光の中にある一人一人を主イエスにあって完全な者として下さり、力を与えて揺らぐことのない者としてくださいます。
目を覚まし、主を見上げ、神の武具を身に着けて主を待ち望みましょう。




 ページのトップへ
  
2017年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ