阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年12月10日
「恐れるな」
Tヨハネ4章16−21節

 アドベント第二週の礼拝をご一緒にささげる事ができて感謝します。
アドベントは、主イエスの来臨に備え、信仰を顧みる時であることは良く知っている所です。「身を慎んで」「目を覚まして」主をお迎えする時であることは、先週御言葉から教えられました。
今日も、「目を覚ましている」状態とはどのような事なのかを御言葉から探って参りたいと思います。
 神が人となられて、この世に来られたという事実がクリスマスの出来事です。その目的は、人を罪から解放し、永遠の命を与えるということ以外にはありません。
神は、私達一人一人がどのように罪深くても、愛して下さるお方です。自分の弱さやわがままに気づかないような愚かな者であっても、神は永遠の愛で愛されるお方です。
ルカ15章の放蕩に明け暮れた弟息子の例え話は、人の罪の姿を良く描いています。自分の事だけしか考えられず、身勝手でわがままな欲望に生きて、父親を悲しませる姿があります。また、兄息子の弟を裁き、父親にクレームをつける姿は、赦せず、受け入れず、自己主張と自己義だけの罪の姿を現しています。父親は、放蕩の限りを尽くし、ボロボロになって帰ってきた息子を遠くから認め、走りより、着物を着せ、履物を履かせ、指輪をはめてやり、息子として喜んで受け入れました。彼の帰りを待ちわびていたのです。お祝いの宴会をしているとき、仕事から帰ってきた兄息子は、自分は今までまじめに、何一つ求めず働いてきた。友達と宴会をするにしても、子ヤギ一匹くれなかったのに、勝手に家を出ていった弟が帰ってきたら、なぜこのように祝うのかと父に文句を言ったのです。彼は一見良い息子のようですが、父親の愛には気づかず、愛には遠い心をもっていたようでした。
兄も弟も自分自身の罪に気づかず、自分の姿が分かっていなかったのです。「目をさまして」いる状態ではありませんでした。
幸い弟息子は、惨めな状況の中で「我にかえった」のです。「目が覚めた」ので、父のもとに帰る事を決心しました。悔い改める事が出来たのは本当に幸いでした。
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」(Tヨハネ4:16)とあります。この御言葉は、わたしたちの信仰の土台ともなる御言葉の一つと考える事ができます。なぜなら、神が愛であることを信じることなくして、信仰は成り立たないからです。日々の生活の中で神の愛を知り、信じているでしょうか。いつでも走り寄って迎えて下さる父の愛を知っているでしょうか。
 愛されているという確信がないと信仰が揺らぎます。何か問題が起こると、すぐに不安で心でいっぱいになってしまい、どうしてよいのか戸惑うのです。
 父なる神様は、人を救うためにその独り子をくださいました。御子を全世界の贖いのために下さった事が神の愛の証拠です。独り子を十字架に架けても惜しくないほどに私たちを愛してくださるのです。その愛にとどまっていましょう。
神の愛にとどまり、神の愛に全く満ち溢れているなら、裁きの日にも何も恐れる事はないのです。なぜなら、「イエスのようで」あるからです。
この世で主イエスと同じようにしていただけるのです。神の愛に満たされて生きる人は何も恐れる事はありません。愛と恐れとは相入れないものです。
主イエスがこの世に来臨されて、新しい戒めとして教えて下さった事は、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34、35)という教えです。また、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を、自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪をおこないません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:8−10)と教えています。主イエスが教えておられる愛とは、互いに愛し合う愛であり、隣人を愛する愛なのです。
 聖書は、あなたが愛する人だけを愛しなさいとは教えていません。愛し難い人、敵対する人、受け入れがたい人を隣人として愛すということを教えています。
 神の愛によって生きる者は、恐れがありません。また何にも恐れる必要もありません。恐れは愛によって締め出されているからです。
 この世に争いが絶えないのはなぜでしょうか。悲しい出来事があちらこちらで起こってしまいます。それは、心の中にある欲や恐れから、また敵対する心から引き起こされてしまうのです。
 クリスマスを前に私たちは自分自身を知らなければなりません。「目を覚ましている」とは、神の愛を知り、その愛を信じ、神の愛によって歩んでいるという事です。
私達は今、何かを恐れているでしょうか。私たちが神の愛によって生きるなら、裁きでさえも恐れる事はないのです。なぜなら主イエスが完全な贖いの業を成し遂げてくださったからです。罪の許しが成されているからです。
現実の問題に押しつぶされているような事はないでしょうか。たくさんの重荷や明日への不安で心が一杯になっているようなことはないでしょうか。その時は、神の愛が心にあるかどうかを顧みましょう。神の愛は恐れを締め出すのです。
私達の神は生きておられる神です。全てを知っておられる神です。私たちは髪の毛までも一本残らず数えられているのです。
神の愛とは、隣人に益をもたらすものです。このような教えは、主イエスを信じる前は、なかなか理解できないことだったと思います。
私たちが生きている目的は、神の栄光を現すためなのですが、それは人を愛することと切り離すことはできません。「神を愛する」なら、「人を愛する」からです。
ルカ15章の放蕩息子の例え話に登場する兄息子の何がいけなかったのでしょうか。人間的に考えるなら、よく働き、お父さんの言いつけを守り、ぜいたくをすることもなく生きてきたのです。立派です。放蕩の限りを尽くした弟とは対照的でした。
決定的なことがありました。それは「愛」がなかったのです。兄は、弟に対して裁きと、軽蔑と、余計な者という思いしかありませんでした。また財産を取られてしまうのではないか、あるいは、父親の愛が弟にいってしまい、自分が押しのけられてしまうのではないかという恐れが生まれたかもしれません。
 このような思いは弟に対する愛があれば締め出されているものだったのです。
恐れる心の解決方法は神の愛を信じ、心が神の愛に満たされることです。自己中心な愛ではなく、神の愛、アガペーに満たされる時、恐れは心から消え去ります。
 私たちは、日々自分が神と正しく向き合っているかを点検する必要があります。自分の罪を告白し、十字架の血潮を仰ぐとき、一切の罪が赦され、解放され、聖い御霊がお住まい下さいます。この御霊は、力と愛と慎みの御霊です。
 クリスマスを前に、信仰と希望と愛に満ち溢れ、神の愛をどのようにして表し、生活していくのか、更に御言葉によって整えられて参りましょう。


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