阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年12月17日
「世の光」
ヨハネ8章12節

  アドベント第三週を迎え、今日の午後は祈り備えてきた吉村美穂さんをお迎えしてのゴスペルコンサートがあります。GGCが用いられて、「ゴスペル」、即ち「福音」を歌い上げられるように更に祈りたいと思います。
福音を聞いた人々が、それを心に受け入れて主イエスこそゴスペルであることを悟り、信じ、救われるよう祈りましょう。
主イエスは、「わたしは世の光である」と言われました。闇の世を照らす光であると言われたのです。
クリスマスというと、だれでも光を連想します。大勢の人が集まる所には、クリスマスツリーが据えられ、美しく光が輝きます。今年はニューヨークのロックフェラーセンター前のクリスマスツリーを抜いて世界一のクリスマスツリーを飾ろうと、神戸のメリケンパークに高さ30メートルのクリスマスツリーが飾られました。神戸開港150周年事業として行われています。富山県の氷見で見つかった、あすなろの木を伏木港から船で運んでツリーとして立てたのです。
暗闇の中に大きな美しいツリーがたくさんのライトによって飾られて浮かび上がる時、本当にきれいで話題になるのですが、残念な事にイエス・キリストを紹介することはありません。このクリスマスツリーは、世の中の話題であり、多くの人が見物に出かけて、そこで行われる有名人によるイベントを楽しむだけのものになってしまうのは本当に残念な事です。
日本人のあいまいな宗教観がこのようなところにもよく現れて、この多くの人々は正月になれば神社に初もうでに行くのでしょう。
光を見て喜んでいる人々は、真の光であるイエス・キリストというお方を認める事ができないのです。美しい光を見ても、真の光であるイエス・キリストを認める事ができません。
イエス様を伝えると、私はあるいは私の家は仏教だからキリストは信じないと言われる方が時々おられます。
仏教の開祖者である釈迦が教えたことを、要約すると、人生は苦しいという事です。
「一切皆苦」(いっさいかいく)という事が教えられて、これは物事全てが思い通りにはならないという意味です。さらに、「生」「老」「病」「死」(しょうろうびょうし)と言って、生まれる事、老いる事、病気をする事、死ぬこと、すべてが苦しい事であると教えているのです。即ち、人生すべてが苦しいという事なのです。救いはというと、この世で功徳をつんで、死んでから極楽に行くことであるという事になります。これらを考えると、この世の中では何も期待しないことが悟りになるわけです。たしかに人生は苦しい事がたくさんあるのかもしれません。
これらの苦しみは、表に表れている闇であると思います。人間には心の中の闇の問題があります。
人の心の中にある闇を聖書はこのように記しています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に価するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(ローマ1:29−32)
ローマ人への手紙は使徒パウロが記したのですが、人の心の中にある罪をこのように記しました。人の心の中はこのような闇でいっぱいになっていて、闇そのものとして生きていかなければならない事がについて教えているのです。しかし、人は罪を自覚することすらなく、闇の中にあることに気づきません。解決の方法はないのです。罪の結果である死から免れることが出来ないのです。。
主イエスが公の御生涯に入られてから、弟子たちをお召しになりました。マルコ2章には、レビ(マタイ)が召された時のことが記されています。
新約聖書には徴税人がたびたび登場します。レビ(マタイ)もカファルナウムの徴税人でした。徴税人はローマ帝国のために働き、人々から税を不正に徴収する罪人であるとされ、まともに受け入れられない人々でした。付き合ってくれる人はなく、認めてくれる人もなく、嫌われ、相手にされない孤独な生活をするほかはありませんでした。生涯罪人として生きて行くよりほかはありません。
しかし、突然人生が変わったのです。いつものように収税所に座っていた時、「わたしに従いなさい」と声がしました。主イエスがお声をかけられたのです。ルカ5章にある並行記事には、「彼はなにもかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。徴税人として働いていれば生活には困りませんでした。しかし、人はパンだけでは生きる事が出来ないのです。心を本当に満たしてくれるものがなければ、魂の満たしがなければ本当の意味で生きられないのです。マタイは、今までの生活の全てを捨ててイエスの招きに直ちに従ったのです。主イエスは彼の心を満たされ、光となって下さいました。
主イエスはレビの家で食事をしてくださいました。その時には、多くの徴税人や罪人がイエスや弟子たちと一緒に食事をしていました。実に大勢の人がイエスに従っていたとあります。ファリサイ人や律法学者は、主イエスが徴税人や罪人と共に食事をされるのを見て、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子に聞きました。主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)とお答えになりました。主イエスがこの世に来てくださったのは、自分が正しい者であって、救いは必要ないと考えている人の為ではなく、心の闇に苦しみ、またこの世に苦しみに喘ぎ、救いと癒しを必要としている人のために来られたと言われたのです。マタイは、自分の持っていた物、自分がこれから送るであろう人生を主イエスにお渡ししてしまったのです。その時、闇から光へと変えられました。主イエスの弟子として働き、マタイによる福音書を記し、最後まで主イエスに従って主の弟子として生涯を全うすることが出来ました。
世の光として来てくださった主イエスは、救いの手を差し伸べられて、だれでも救い、罪を赦し永遠の命の中に招き入れてくださいます。生も死も病も老いも、すべての問題も解決して下さり、そのすばらしい栄光を見ることができるのです。この世にありながら天国の民として受け入れて、常に力と慰めを与え続けてくださっています。
闇が深ければ深いほど、光の効果は強いのです。マタイは闇から光へと人生が変えられたのです。それは、マタイだけではありません。主イエスの招きに応じる者は誰でも光の中へと招かれます。
クリスマスのイルミネーションの意味は、暗闇の中に輝く主イエスを表すものです。主イエスこそ真の救い主である事を表しているのです。
「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12口語)
主イエスこそ真の光であり、真の救い主です。罪人を招き、罪を赦し、永遠の命を与え、命の道、光の中を歩ませて下さる唯一のお方なのです。
光の中を、光として歩みましょう。そして、その光を世の中に輝かせましょう。私達一人一人を通して、暗闇の中を歩む魂が、光へと導かれ、救われるのです。
クリスマスを前に更に命の光の中を歩み、生きておられる主イエスを褒め称え、主イエスの光を高く掲げて御降誕を待ち望みましょう。


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