阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年12月24日
「神が人となられた」
ルカ2章8−20節

 キリストの御降誕を心よりお祝い致します。
先週のクリスマスコンサートも、昨日のファミリークリスマスも楽しい時を持つことができました。ご奉仕に心からの感謝をささげます。
また、今朝は静まって、心からクリスマスの礼拝をささげたいと思います。
 クリスマスイブの出来事が今日の聖書箇所に記されています。天使によってユダヤの野で一晩中羊の番をする羊飼いたちに救い主の降誕が告げられました。天使は、「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ11、12)と語りました。
主の栄光が羊飼いたちを照らしたので彼らは非常に恐れました。
救い主の到来は旧約聖書の中で預言者たちによって預言されていましたが、しかし、いつどのように来られるのかはわかりませんでした。
メシアの預言で有名なのはイザヤによるものです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」(イザヤ9:5)この御言葉は、誰もが知る所だと思います。イザヤの時代は主の降誕より800年も前の事でした。男の子が与えられるとありますが、それが長い長い時を経て、預言が成就し、キリストはこの世にお生まれになりました。
羊飼いの野に天使の軍勢が現れ、神への賛美が沸き上がりました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)と賛美したのです。天使たちによるゴスペルコンサートは、羊飼いたちが聞きました。天の軍勢が天に帰ってから羊飼いたちは、急いでベツレヘムへ行きました。そして、マリアとヨセフ、飼い葉桶の中のイエスを探し当てて礼拝しました。
羊飼いたちは、すべて天使の告げた通りだったので、神を崇め賛美しながら帰っていきました。羊飼いは見聞きしたことを人々に語りました。人々はこれを不思議に思いました。
 救い主は、ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かされていました。皇帝アウグストゥスの人口調査の登録のため、ヨセフとマリアはガリラヤのナザレから本籍地であるベツレヘムへやってきたのですが、大勢の人々が集まり、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったのです。
 人が出産するためには、さまざまな用意をします。ベビー用の肌着やおしめ、ベビー服、布団や毛布、さらにこまごまとしたものをそろえて出産に備えます。そして、一番大切にしたいのは、清潔という事ではないでしょうか。清潔な美しい病院で赤ちゃんを出産するのが当たり前にです。
ところが主イエスがお生まれになったのは、清潔とは程遠い場所でした。家畜小屋には、わらが敷いてあったでしょうが、動物のにおいがこもり、匂いがきついのです。私は牛小屋の匂いを知っていますが、それはそれは独特で大変な匂いです。ガリラヤのナザレから旅をしてきたマリア達には新生児に着せる新しい産着の用意もありませんでした。ベビーベッドもありませんでした。普通の人が出産するところではない場所で神の御子はお生まれになりました。
 いうまでもなく、主イエスがこの世にお生まれくださったのは、すべての人の罪を贖い、永遠の命を与えるためでした。主イエス以外に人を罪から救う事ができる存在はいないのです。
主イエスは神であられるのに、人の子としてお生まれになり、誰よりも低い姿勢をおとりになりました。ごみごみとした家畜小屋で生まれ、布切れで包まれ、飼い葉桶に寝かされたのです。これ以上の謙遜さはありません
野にいた羊飼いたちは、律法を知らず、儀式を知らず、安息日にも羊の番をする罪人として、蔑まれていた人々でした。しかし、彼らの前に御降誕の知らせがあったのです。天使たちの大合唱は、神への賛美と、地上には、平和が御心に適う人にあれという内容でした。
「御心に適う人」とは、どのような人の事でしょうか。旧約聖書のミカ書は、メシアがベツレヘムでお生まれになるという預言がされていて有名な預言書ですが、6章8節に、「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。」とあります。ミカという預言者は、イザヤと同じ時代に活動した預言者です。主は一体何を喜ばれるのかと、あります。犠牲の動物をささげることか、幾千の犠牲をささげることか、出エジプトを連想させる、長子をささげることか、これはどうなのかと、問いかけ、その答えが6章8節の御言葉です。
正義を行うとは、もちろん正しい事を行うという事ですが、それは、うそ、偽りを言わないところから始まることと言えます。エフェソ4章25節には、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」とあります。真実を語る事は、愛の表れです。うそ偽りは愛からかけ離れています。愛は、「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(Tコリント13:6)のです。慈しみの心を持ち、へりくだって神と歩む事、これこそ神が求め、喜んでくださる事なのです。
聖書は一貫して「低くなる」事を教えています。その模範は主イエスです。
お生まれになった時から十字架に至るまで低い姿勢をおとりになったのです。
主イエスはだれも心にかけないような存在だった羊飼いに目を注がれ、罪人の友となり、罪ある者を赦し、命を捨てて愛して下さった。神であられる方が人として生まれ、人として歩まれ、人を愛し、罪の贖いとして十字架の犠牲となって下さったのです。この主イエスを心に深くお迎えする時、どうして高慢になることができるでしょうか。私たちは、かつては主イエスを知らず、罪を自覚することもなく、自分が良いと思う事を行ってきました。自分の考えが正しいと思って生きてきたのです。自分が正しいかどうかの基準は自分の基準であって、皆それぞれ基準をもっていました。イスカリオテのユダは、主の十二弟子の一人であったのに、主イエスを裏切り、銀貨30枚で祭司長たちに売り渡してしまい、その結果破滅しなければなりませんでした。自分では正しいと思っていた判断は間違いだったのです。
私達は、まず主イエスをしっかりと心にお迎えしなければなりません。家畜小屋のような心であるから、主イエスはお入りくださるのです。すべての民に与えられる大きな喜びを頂くことができるのです。そして、主イエスは「インマヌエル」の主です。これは、「神は我々と共におられる」という意味です。主イエスはインマヌエル、私達と共におられる神であることをしっかりと信じましょう。私たちが主と共に歩みたいと願うなら、主は常に共にいてくださいます。
心を命の光で満たし、救いの喜びで溢れさせて下さり、主イエスのすばらしさを褒め称えさせて下さるのです。主イエスの光と救いと喜びを誰にでも伝える事が出来るのです。
幼子としてお生まれ下さった主イエスこそ、神が人となられたメシア、救い主であり、永遠の希望であることを心から崇めましょう。救いを心から感謝し、これからも心を低くし、神の前に遜って信仰の道を歩ませていただきましょう。

「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6−8)


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