阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年12月31日
「永遠の希望」
Tペトロ1章21―25節

  今年もいよいよ今日が最後の日、大晦日となりました。年末は忙しいのですが、主の日に礼拝をささげることは御心であり、何よりも大切な事です。今年の礼拝は53回あったのですが、一回一回心からの礼拝をささげられて感謝します。また、明日は2018年の元旦です。新しい年の初めを礼拝をもって始めたいと思います。
 さて、人生において最も幸いなことは、イエス・キリストに出会い、その招きに応じてイエスを救い主として受け入れ、信じ従う事です。
主イエスは、心の戸を叩き続けておられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。」(黙示3:20)。主イエスの御声を聞いて、お迎えできる人は本当に幸いです。
 私達は今、この地上で生活をしておりますが、地上にあるものは移り変わり、やがてなくなってしまいます。私達の体も、今は健康で力に溢れていたとしても、やがて衰えて行くことは当たり前の事といえます。しかし、主イエスの言葉は決して変わることのない真理であって、慰め地励ましに満ち溢れています。
 私達の「外なる人」は衰えていきますが、「内なる人」は日々新しくされ続けると教えてくださっています。(参照Uコリント4:16,17)体は下降線をたどっても、内なる人、魂は毎日毎日聖霊によって新しくなり続けていくというのが主イエスの救いの素晴らしさです。
ですから、何が起ころうと、どんな目に遭おうと、落胆することはないのです。救いを頂いている者は、主イエスによって常に命に満たされているからです。私達はこの永遠の救いをもっともっと喜び、躍り上がるほどの喜びを表していきたいと思うのです。
 ペトロの手紙には、「あなたがたは真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」(1:22)とあります。主イエスはご自分の事を「道、真理、命」と言われました。主イエスは、救いに至る道、真理、命そのものであるお方です。
 真理、即ちイエス・キリストを受け入れた者は、主イエスの十字架の血潮によって罪が赦され、清められているのです。そして、聖い御霊に満たされ続けているのです。
 赦された者は、人を赦し、主イエスが受け入れてくださったように、受け入れ合い、愛し合うことが救いの証となります。聖霊によって深い兄弟愛をもって愛し合う事、これが御心なのです。ペトロの手紙は互いに愛し合う事を「心をこめて」(ペトロ4:8)愛し合うようにと教えています。また、愛は「多くの罪を覆う」(Tペトロ4:8)とあって、愛は罪を赦し忘れ去る事であると教えているのです。
 主イエスは、罪ある者のために僕の姿をとられて十字架の道を進んでくださいました。生まれながらに罪を持ち、人を憎み、敵対し、見下げ、悪く思うような者を愛し、赦し、受け入れてくださったのです。
 また、主イエスの御心を知りながらも、それに従わないようなものであっても愛し、受け入れてくださるのが主イエスなのです。
 その愛と赦しをいたずらに受けるのではなく、日々信仰の成長を求め祈ることが大切です。
 主イエスを信じた時、私達は朽ちない種、神の御言葉に」よって新しい命を頂くことが出来ました。世のものは移り変わり、無くなってしまっても、神の御言葉は永遠に変わる事がなく、永遠の命も変わることはありません。
 Tペトロ1章3節以下にも、素晴らしい御言葉が記されています。「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐものとしてくださいました。」とあるのです。イエスキリストの復活の」命に新しく生まれさせて下さり、天にある素晴らしい財産、なくならない財産を受け継ぐものとして下さっているのです。
 神の愛と救いをしっかりと受け取り、永遠の救いを喜び、賛美しましょう。ペトロは、ガリラヤ湖の漁師をしていました。ある時主イエスから「わたしに従ってきなさい」と御声を掛けられて主に従う者となりました。ペトロは大胆なところもあったのですが、失敗もあった弟子でした。主イエスがガリラヤ湖を歩いて来て、自分たちの乗った船に近づいて来られた時、それが主イエスだとわかったとたん、「主よ、わたしに命じて水の上を渡ってあなたのところまで行かせてください。」とお願いしました。最初はうまくいったのですが、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけてしまい、主イエスに助けを求めました。すぐに主は引き上げてくださり、助けられました。主イエスは、「信仰の薄い者、なぜ疑ったのか」と言われたのです。
 さらに、一番大きな失敗は、大祭司の庭で裁判にかけられている主イエスを拒んだことでした。ゲッセマネの園で逮捕された主イエスが大祭司カイアファの庭に連れて行かれると、ペトロもそーっと付いて行き、庭に入り込みました。人々が庭で焚火をしてあたっていたので、ペトロもさりげなく一緒に火にあたっていました。火に顔が照らされたので、ある女中さんが「この人も仲間だ」と言ったのです。「わたしはあの人を知らない」と否定しました。しばらくすると別の人が「お前も仲間だ」と言いました。ペトロは「そうではない」と否定しました。また別の人が「確かにこの人も一緒にいた。ガリラヤの者だから」と言ったのです。「あなたの言う事はわからない」と言った時に、鶏が鳴いたのです。ペトロはかつて主イエスが鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うと言われた言葉を思い出して、外へ出て激しく泣きました。
 主イエスを知らないと言ってしまった事は、取り消せない大きな罪でした。ペトロはこの自分の弱さと罪を自覚して、初めて主イエスの愛が分かったのです。自分の弱さが分かり、悔い改めた時、新たな命に生まれ変わったことを体験として知り、主イエスの愛が分かったのです。
 主イエスの前に悔い改める時、取り消せない罪はない事を覚えましょう。十字架の血潮は全ての罪を赦し、新しい命を与えて下さるのです。それからのペトロの力の源は聖霊による新しい命と愛と赦しでした。
 ペトロは、イザヤ書の美しい預言の言葉を引用しました。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、野の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし主の言葉は永遠に変わることがない」(イザヤ40:7 Tペトロ1:24)
 草は枯れ、花はしぼむでしょう。しかし私たちはこの世のものの上に希望を置くのではなく、永遠の希望である主イエス・キリストに希望を置くことができる事を感謝します。
 これこそが福音であると御言葉は続けられています。この永遠の希望は全ての人々にもたらされているものなのです。
 失敗だらけでも、取り消せないような罪でも、主の前に告白し、悔い改める、その時から新しい命と希望に生かして下さる主イエスを崇めましょう。
 そして、永遠の希望、主イエスを、福音が告げ知らされるように祈り、新しい年に主の御業を期待しましょう。

「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているからです」
(Tペトロ1:21)


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