阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年1月7日
「新しい希望」
創世記12章1―4節

 あけましておめでとうございます。2018年最初の主の日の礼拝をささげられる恵みを心より感謝します。
私たちはこの世に生を受け、今日まで歩んできたのですが、それは長い旅と考える事も出来ます。神に召されて歩み続けた信仰の父と呼ばれるアブラハムも旅を続けてきた人の一人でした。
今日お読みした創世記12章は、アブラハムが神からの召命に応じて出発した場面が記されています。
使徒言行録7章には、ステファノが逮捕され、最高法院で証言していることが記録されています。ステファノによれば、アブラハムがまだハランに行く前、メソポタミアに住んでいた時に、神は、「あなたの土地と親族を離れわたしが示す地に行け」(使徒7:3)と言われたとあります。
創世期だけを読むと、ハランで召命を受けたように思えるのですが、アブラハムはそれよりもはるか前に神の召しを受けていたと考えられます。
神はアブラハムに、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」(創世記12:1−2)と語られました。
アブラハム(当時はアブラム)は、父であるテラと甥ロト、妻のサラ(当時はサライ)と共に、カルデアのウルから、ハランに移り住んでいたのですが、父テラはハランで生涯を終えました。
神からの召命を受けていたアブラハムは、この時、時が来た事を確信して出発することにしました。
どこへ向かうのかは全く分かりませんでした。行き先を知らずに旅立つのは勇気のいる事でした。
アブラハムにあったのは、神の言葉に対する信仰と新しい希望だったのです。
アブラハムに限らず、人には先のことは何一つ確実に知ることはできません。5分先の事も分からないのです。ましてや明日の事など全くわかりません。自分ではこのようにしたいと計画していても、実際にはどうなるのかわからないのです。
ヤコブの手紙4章13節以下には、「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」とあります。
人は、自分の人生も命も何もかも自分のものであって、自分が考えるとおりにするのが当たり前と思っています。自分の力と知恵で今の自分があると信じています。しかし、実際には、明日自分の命があるかさえ分からないものなのです。聖書はすべて自分の考えた通りにできると思う事、それは「誇り高ぶり」(ヤコブ4:16)であると教えているのです。神を知ろうとせず、神の恵みを知らず、すべてが自分の力で成り立っていると考えるのは高慢と教えています。
人が真の神を知らなくても、神は人を知っておられ、命を与え、太陽の光を与え、無くてならぬ物で満たし、養い守り続けておられます。
アブラハムは、ハランで出発の時が来たことを確信しました。どこで何が待っているのか、何も知らないままでした。
神が約束されたのは、「大いなる国民とする」、「祝福の源」となる、「すべての民はアブラハムによって祝福される」という事でした。
神の祝福ということばがここでは何回も記されています。神の祝福とは、天地万物を創造された神が、人に対してその無限の恵みを与えると約束してくださる事です。
「あなたに神の祝福がありますように」と、祝福を祈るのは、神の限りない恵みが完全にありますように」という意味です。お互い祝福を祈り合う者とされていることを感謝します。
アブラハムは神が約束された通り、大いなる国民の父とされました。約束の子イサクが100歳の時与えられて、その子孫は天の星のように、浜辺の砂のようになったのです。
また、神はアブラハムを祝福の源とされ、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束されたのです。祝福の源とはアブラハム自身が存在する事自体が祝福であるという事です。
これらの祝福の約束を頂いてアブラハムは旅立ちました。これは信仰によって始められたことでした。
アブラハムは神を信じました。それで義と認められたのです。神は約束されたことを実現させる力を持っておられる方と確信していました。また、死んだ者に命を与え、無から有を生み出すお方であることを信じていました。信仰によって行き先も知らずに旅立ったのです。
ところで、私達の歩みも「旅」であり、私達は「旅人」、「寄留者」であると聖書は教えています。寄留者とは、本来そこに住んでいる者ではない者が一時的に滞在することを言います。
私たちは真の神に召され、主イエス・キリストの十字架の贖いを受けて神の国の民となりました。この世に生きながら神の国の民の歩みを続ける者になりました。アブラハムが出発したように、生まれ故郷、父の家を離れ、信仰の旅立ちをしました。これはなにも自分の住んでいる家を出るとか、実際の家族から離れるという事ではありません。
神の導きを信じ、神の御言葉を喜び、神の御心に沿った生き方に方向転換することを指しています。信仰によって歩み始める事なのです。
イエス・キリストの十字架によって罪赦された者は、主と共に十字架を負って生きることが喜びとされたのです。丁度エジプトの王子として育ったモーセが、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えたように、キリストのために生かされるという喜びと希望に満たされるのです。
主イエス・キリストは、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も細い事か。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13,14)と言われました。
命に至る門は狭く、その道は細々としていて歩きにくいのです。滅びの門も道も広々としていてそこに行く人が多いのです。この世の道は歩きやすそうに見えるかもしれません。しかしそこには救いはありません。
主イエスに従う道は歩きにくく、険しいのかもしれません。しかし、私達はこの世の寄留者であること、この世は一時的に滞在している所であることを忘れてしまってはいけないのです。
一日一日、今日はどのように歩んだらよいのかを主イエスに聞き、また導いてくださる御声を聞き洩らさずに進む時、神の豊かな祝福が溢れ流れるのです。
アブラハムのその存在が祝福そのものであったように、主イエスにあって私達も祝福の基であり、祝福を伝える存在とされていることをいつも心にとどめておきましょう。
アブラハムは、後に約束の子イサクを捧げるように神に示された時もそうなのですが、新しい出発をするように示され決心した時も、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12:4)とあって、ただ静かに従っていきました。これがアブラハムの信仰の姿勢でした。せっかく与えられたイサクをささげるよう告げられた時も、淡々としてそれに従ったのです。「命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じた」(ローマ4:17)からです。
私たちが信じ、礼拝をささげている神は生きておられる方です。目に見えるものを頼る生き方から離れ、信仰の出発をするように私たちを促しておられます。神に導かれるなら備えられているのは祝福です。
新しい年、あらためて信仰の決意と、出発の時を迎えています。
行き先を知らなくても神は御存じです。神の御声に従い、この世の戦いを勝ち抜き、祝福の源として多くの人々に神の祝福を与える一年となるように、信仰と希望の出発をいたしましょう。


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