阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年1月14日
「主イエスの救い」
ルカ14章15−24節

 主イエスはこの地上におられた間に、神の国を宣べ伝えられ、救いと癒しの業をなさいました。また、罪人の友となり、その招待に応じて食事を共にしてくださいました。
 ある時、食事に招かれた人々が上席を選ぶ様子をご覧になって、末席に座るような謙遜な心を持つよう教えられました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と教えられたのです。また、招いてくれた人には、宴会には貧しい人、体や足の不自由な人、誰からもかえりみられないような人々を招くようにと教えられました。お返しができない人々を招くようにと教えられたのです。
 人々の必要に心を使い、慰めを与え、遜って(へりくだって)主イエスに仕えるように人に仕えるなら、その人は神の前に幸いな者であって、神の報いを豊かに受ける事が出来るのです。
その時、主と共に食卓に着いていた人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました。神の国は大きな喜びの国であることが、共に食事をするという事であらわされています。
主イエスは例話をなさいました。
ある人が盛大な宴会を計画して、大勢の人を招きました。宴会の時刻になったので、招いておいた人々のところへ僕を送り、用意ができましたからお越しくださいと言わせたのです。ところが、皆は次々に断ったのです。「畑を買ったので、見に行かねばなりません」、「牛を買いました。それを調べにいくところです」、「結婚したので行かれません」。それぞれが理由を言って招待を断りました。
主人は怒って、「急いで町の広場や路地へ行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさい」と僕に命じました。招かれていなかった人が集まってきたのですが、まだまだ席があったのです。すると主人は、通りや小道に行き、無理にでも人々を連れて来てこの家をいっぱいにしてくれ」と言いました。
もちろん、この主人は神であって、神は人々をご自分の御国に招待されたのですが、さまざまな理由でそれを断ってしまった人がいたのです。
神の招き、それは、永遠の救いに入れられるという事ですが、何にも比べる事の出来ないその価値を、あまりにも軽んじてしまう人の姿を現しています。
神がイエス・キリストをこの世に遣わされたのは、この方を信じる者が一人も残らず永遠の命を得るためでした。永遠の命と、この世の事情は天と地よりもかけ離れているものです。
イエス・キリストを通して与えられている救いと、永遠の命を軽んじることがあってはなりません。
旧約聖書の創世記25章に、ヤコブとエサウの出来事が記されています。この二人は双子で、父はアブラハムの子イサク、母はリベカでした。彼らは、顔かたちも性格も全く違った二人でした。
成長するとエサウは野を駆け回り、狩りをして獲物を持ち帰り、父イサクを喜ばせました。ヤコブは穏やかな性格で、住まいである天幕の周りで働くような人でした。
ある時、エサウが狩りをして疲れ切り、空腹で帰ってくると、ヤコブが料理をしていました。エサウは、そのレンズ豆の煮ものが食べたくて、「お願いだ、私は疲れ切っているのだ、その煮物を食べさせてくれ」と弟ヤコブに頼みました。ヤコブは、「まず、お兄さんの長子の特権を譲って下さい」と言いました。長子の特権は決して失ってはならないものでした。これは、財産と神の霊的な祝福一切であって、なくてならない大切な祝福なのです
決して失ってはいけないものでした。ところが、エサウは「ああもう死にそうだ。長子の権利などどうでもいい」と言って、一杯の煮ものとパンと祝福を交換してしまったのです。「こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた」(創世記25:34)とあります。
その後、父イサクは体が衰え、目も見えなくなって、すべての祝福をエサウに与えようとしたのですが、母リベカとヤコブはこの祝福をエサウが狩りに出ているうちに、奪い取ってしまいました。ヤコブは、ヤコブをエサウだと思って祝福を与えました。
美しい祝福の言葉です。「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われお前を祝福する者は祝福されるように」(創世記27:27−29)。
ヤコブの祝福が終わってから、エサウは狩りから帰ってきて、父のために調理をし、「お父さん、この料理を食べ、私を祝福してください」と頼みました。「お前は誰なのか」「わたしは長男のエサウです」。「ではあれは誰だったのか。わたしは持ってきた料理を食べ、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福された者になっている」。
父のこの言葉を聞いたエサウは、「おとうさん、私を祝福してください。お父さんは私のために祝福を残しておいてくれなかったのですか、祝福は一つしかないのですか」と泣き叫びましたが、イサクは、「既にわたしは彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕にし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ、今となっては、お前のために何をしてやれようか」(創世記27:37)と語り、エサウは祝福を受ける事はできませんでした。
この事を新約聖書のヘブライ人への手紙の中で、「また、誰であれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。」(ヘブライ12:16−17)と記しています。長子の特権と、一杯の食物、永遠の神の祝福と、食べたら無くなる食物と、どちらがなくてならぬものか知る者でありたいと思います。ヘブライ人への手紙では、エサウの事を俗悪で不敬虔な者、神を冒涜する者と、手厳しい評価をしています。
主イエスのたとえ話に戻りますが、なぜ先に招かれていた人々は、宴会に行かなかったのでしょうか。まず、招いてくれた主人の権威を無視していると考えられます。この方は、天地万物を創造された神、全知全能の神、命の源であられる方。すべての権威と栄光はこの方のものです。
礼拝を捧げるべき唯一の神なのです。この方の招きを無視し、拒絶するなど考えられない不敬虔な事です。
 次に、それぞれが自分の都合を神よりも上に置いているという事です。
神の国の招きより大切な事はありません。これは、自分を神より上に置いている事なのです。人は高慢という罪の中に生きているのです。
神は招かれていなかった人々を迎え入れようとされました。それでもなお席があるから、無理にでも人々を連れてこさせたのです。この宴席には良い物が備えられていました。神の国の盛大な宴会です。マタイによる福音書の並行記事によれば、王子の結婚の祝いの席であるとあります。しかも一人一人に礼服まで用意されていたのです。ありのままの姿で招かれ、お祝いのプレゼントも持たず、むろんお招きのお返しもできず、しかし、ただ招かれてそれに応じたことに、主人である神は満足されたのです。
今はどのような時でしょうか。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリント6:2)なのです。主イエス・キリストの十字架の贖いにより、イエスをキリストとして信じ受け入れる者は誰でも宴席に連なることが出来るのです。罪の許しと永遠の命を受けられるという素晴らしい救いの日なのです。この時に、今という時、招かれている時に、イエスの救いを受けるのです。
10日には、伊佐千代子姉の告別式が執り行われました。千代子姉は神の招きに応じて、神の国の宴席に連なりました。平安な表情は神の国を証しているようで、残された者たちの大きな慰めとなっています。神の国の素晴らしさを証されているように思いました。人を救い、永遠の命を与えようとされる方の招きに応じて、神の国宴席に連なる者とされていることを感謝し、この救いの座に多くの人を導く恵みに預かりたいと思います。


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