阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年1月21日
「なすべきことをする」
ルカ17章7−10節

 主イエスは、地上を歩まれた時、多くの人々に神の国を伝え、病を癒し、明日への不安を取り除いてくださいました。そして、罪の許しと永遠の命の希望を与え、主が復活されたように、信じるものすべてが復活の命の確信を持つように、信仰を与えてくださいました。
1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災から今年は23年目を迎えました。震災に遭った町々は復興したかもしれませんが、前夜寝る前には考えもしなかったような震災に遭い、家族や友人を亡くし、いまだに心の傷を持ちながら生きている多くの方々がおられます。
また、その後も2011年3月11日に東日本大震災が起こり、一昨年は熊本でも大震災があり、いつなんどき何が起こるかわからない中に私達も生きていることを教えられています。
不確実な世に生かされている私たちは、全能の神の御手にすがりながら、一歩一歩導かれて歩み続けたいと願うのです。
私たちを愛し、手をとって導き続けて下さる方によって今日もあることを感謝します。
さて、聖書には、僕という身分の者がよく登場します。当時の身分制度の中には奴隷という身分の人たちがいました。マタイ18章に、1万タラントンの借金を主人に赦してもらった家来が、百デナリオンを返せない仲間を許さないで、「自分も、妻も子も、また持ち物も全部売って返済しろ」と迫っているイエスさまの例話があります。当時はこのような事が当たり前にあって、奴隷という身分になった人たちがいました。しかし、イスラエルでは奴隷を物として扱うのではなく、人として受け入れる事が律法で定められていました。また、6年間働くと7年目には解放される事や、親族は買い戻しに努力する事などがあって、比較的恵まれていたと考えられています。また、解放されるよりも、主人の下で働きたいと願う者はそれも許されたのです。
ローマの信徒への手紙には、私達は、かつては罪に支配される罪の奴隷であったとあります。しかし、今は罪から解放されて義に仕え、神の奴隷となったとあります。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」(ローマ6:22)とあります。
私たちは今、罪の奴隷から、神の奴隷になり、永遠の命に生かされているのです。
イエス・キリストがご主人様であり、この方に仕えて行くことが教えられています。
 主イエスは例話で、僕としての姿を教えて下さいました。
あなた方の中で畑で畑仕事をするか、羊飼いをする僕がいる場合、その僕が畑から帰ってきたら、「すぐ来て食事の席に着きなさい」、すぐ食事をしなさいとは、言わないであろう。「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と、いうのではないか、(ルカ17:8)とあります。
一日の仕事を終えて帰ってきたら、ご主人様の食事の用意をして、給仕をする、僕には仕事がたくさんありました。
それに対して主人は、感謝するだろうかとあり、さらに、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)と教えて下さいました。
主人である神に対する姿勢について考えさせられるところです。
人は賞賛される事を望みます。褒められるとうれしくて力がでます。それは良い事なのですが、いつの間にか褒められないと満足しないという心をもってしまうかもしれません。これほどに頑張ったのだから、ご主人様も他の人も自分を認め、称賛してくれなければおかしいと思い、それがないと失望したり、僻ん(ひがん)でしまうことがあってはなりません。それは、イエス・キリストの贖いを受けた者にふさわしいことではないのです。
自分がまかされている事、しなければならないことをすることができたら、それは本当に素晴らしい事で、静かに神に感謝する心が大切なのです。僕の役割は主人に仕える事です。主人の役に立つことが喜びとなるのです。
この例話の中に、「腰に帯を締め」(17:8)て、給仕をしなさいという言葉があります。腰に帯を締めるとは、きちんと帯をしめて働く備えができている状態を指します。眠る時は帯は締めないのです。目覚めている状態なのです。
主人は僕の状態を良く知る主人です。僕の力がどれほどのものであるかを良く知り抜いています。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(ルカ12:7)とあるように、知り尽くしておられるのです。「主よ、あなたはわたしを極めわたしを知っておられる。」(詩編139:1)神は、私達を造られた方であって、その人を知り尽くしておられるお方です。母の胎内にあった時から、まだこの世に生まれ出る前からその生涯が主の書に記されているとあります。
ですから、主人の用に用いる時、僕の力にふさわしい役割を与えることがおできになります。マタイ25章には、それぞれの力に応じて一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンを預けて主人は旅に出たとあるのです。5タラントンを預けられた僕はそれにふさわしく働きました。2タラントンを預けられた僕もそれにふさわしく働きました。ところが1タラントンを預けられた僕は主人の心を知らずに、地の中に隠しておいて、叱責されなければなりませんでした。
1タラントンを十分に生かせる力があるのに、彼は何もしようとしませんでした。私たちは与えられている能力や賜物をしっかりと用いて主イエスに仕えて行きたいと思うのです。
いずれにしても僕に求められていることは、忠実であるという事です。先ほどの畑仕事から帰って主人に給仕する僕の働きを忠実にする時、やがて主人から思いがけな報いを受け取ります。
ルカ12章35節以下に、目を覚ましている僕の例話が記されています。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(ルカ12:35−37)とあります。主人が婚宴の席に連なるため出かけていて、いつ戻るかわからないのですが、腰に帯をしめて、明かりを灯し続けて準備をして、主人が帰ってきたらすぐに戸をあけられるようにしている僕は幸いであると教えています。なぜなら、主人が帯を締めて僕たちを食卓に着かせて給仕をしてくれるのです。僕と主人とがまったく逆になっています。忠実な僕は主人の給仕を受けるという特権に預かれるのです。
最後の晩餐の席上で、主の弟子たちは誰が一番偉いかなどという議論をしました。十字架が迫ってきている時に大変人間的な話をしていたのです。そこで主イエスは、上に立つ人は仕える者になる事を教えられました。そして、「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22:27)と言われました。神である方が人の中にあって仕える姿勢をおとりになったのです。
私たちは、主イエスから与えられている力、賜物を惜しみなく使って仕える者でありたいと願います。そして、主の前に立つ時に、「わたしどもは与えられた以上の事はしておりません。すべきことをしただけの事です。」と申し上げたいのです。主人である方の、「良い忠実な僕、よくやった」、また、「あなたがたはわたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(ルカ22:30)というお言葉に預かれるのです。
主イエスを愛し、その御声をよく聞き分け、その御心を良く知り、忠実な僕として仕えて行きたいと願う時、主イエスは、その御業のために豊かに用いてくださいます。
常に主イエスを仰ぎ見、聖なる豊かな実を結ぶ僕であるようにと、改めて願い、栄光のために用いられる事を求めていきましょう。


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