阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年1月28日
「十字架の言葉」
ローマ10章14−17節

  2018年も一ヶ月過ぎようとしています。この一月(ひとつき)の間にもさまざまな事がありましたが、今日まで主に守られた事を感謝します。
私たちにとって最も幸いな事は、いつも主の前にでて、礼拝をささげられるということです。ご高齢や病気のために礼拝出席がかなわない兄姉のためにいつもいのりましょう。
 主イエスは御言葉によって、私たちが道に迷わないようにと導いてくださいます。良い羊飼いであるお方が、先頭にたって導き続けておられる姿を見失うようなことがあってはなりません。
 毎日しっかりと御声を聞き、その御声に聞き従う信仰によって歩みたいと思います。
 聖書の御言葉は、魂を養ってくださる命の糧です。ヨハネによる福音書は、永遠の命について教えている福音書です。主イエスがご自分のことを、「わたしは天から降って来たパンである」(ヨハネ6:41)と言われた時、聞いた人々はそれが理解できずに、この人はヨセフの子で、母親はマリアではないか。どうしてそのような事を言うのかと、つぶやいたのです。主イエスはご自分こそがメシアであり、命のパンである方であることを教えようとされ、「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51)「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6:58)と重ねて教えられたのですが。人々は受け入れる事が出来なかったのです。
 主イエスは永遠の命という霊的な事を教えられているのに、人々はこの世の知識や知恵で聞いているので、かみ合わなかったのです。
 命のパンを食べるとは、主イエスが唯一の救い主であり、この方を信じ、心に受け入れる事であって、その人は永遠の命をいただけるという、すばらしいメッセージなのです。
主イエスの十字架と復活の後、福音は全世界に広められてきました。
現代は情報伝達がすぐにできる時代になりました。しかし、聖書の時代から、主の弟子たちは町々村々を歩いて、また迫害され、各地に散らされながら福音を伝えていきました。どこまでも伝え続けていったのです。
 アッセンブリー教団は戦後1949年に創立されました。宣教師たちが遣わされて福音の働きをされたのです。それ以前1913年(大正2年)に、すでにアメリカのオハイオから来られたジュルゲンセン一家による伝道が本郷で始められていて、東京の板橋に教会が建て上げられていました。
 日本語もわからないまま、それまでの生活を捨てて日本に宣教師として来たのは、神の召しを確信して、信仰によってでした。何とかして日本に救いを伝えたかったのです。私たちの教会では、ジョンストン宣教師、特にハリエット夫人の記憶はまだ新しいのですが、当時の宣教師たちはすでに召されています。今は天において素晴らしい報いと、安息の中にあることと思います。
時代を超え、数え切れない人々の宣教によって今の私たちがあることを忘れてはいけないのです。
さて、私達は教会に集っています。イエス・キリストの教会、エクレシアといいます。イエス・キリストに召された者たちの集まり、つまり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド(神に召された者の集まり)です。
教会は主イエスの臨在が豊かにある所です。礼拝がささげられ、正しく御言葉が語られる所です。聖餐や洗礼という典礼がなされます。また信じる者がどのように生き、証ししていくのかという御言葉の教えがなされます。主イエスを中心とした交わりがなされ、信仰をもって進むことが出来るように励ましあいます。そして、福音を伝えていくという大切な働きを担っているのです。
ローマの信徒への手紙は、「信仰による義認」というテーマで記されています。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:8−10)主イエスの十字架の贖いによって罪赦され、神と和解し、義とされたと宣言しています。聖書は永遠の命を宣言しています。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ6:23)
さて、ローマ書10章14節からの御言葉ですが、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」とあります。この御言葉は終わりから読むと意味が良く分かる御言葉です。遣わされると宣べ伝えることができるのです。宣べ伝える人がいれば聞くことができます。聞くことができるなら呼び求める事ができます。呼び求めることができれば信じる事ができます、という事を言っています。
何を宣べ伝えるのでしょうか。それは神の御言葉です。信仰の言葉であり、十字架の言葉です。「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」(ローマ10:13)のです。私たちは宣教師として召されていないので、外国までは出かけていきません。それぞれ神の召しによるのです。
わたしは神学校の3年生になっても、卒業後はどのようにどこで働くことが出来るのか全くわかりませんでした。しかし、一年はすぐに過ぎていきます。真剣に祈ることを示されました。ある時祈りの中に、「国内ですか、国外ですか」という声がありました。「外国には重荷はないのです。国内です」と答えました。「それではわたしが遣わすところへ行けばよいのです」と示されて、卒業まで安心して学び、備えることができました。私達一人一人を主イエスはご自分の福音の働きのために召されています。
主イエスは遣わされます。それは、生活の場であるかもしれません。家庭や、職場や、学校や、公園、自分が所属している所、身近な毎日居る所かもしれません。しかし、そこはあなたしか入ることのできない所なのです。林由佳先生一家のように中国かもしれません。私たちは主イエスに遣わされてそこにいるのです。その所で御言葉を伝えることは、わたしたちにしかできない事です。
御言葉は、まず私たちを強い信仰に導きます。信仰を養われます。試練の時も、悩みの時も、御言葉は力を与え、勝利を与えてくださいます。また、道をそれそうになった時、正しい道に引き戻されます。御言葉は真理ですという証を持つことが出来ます。
御言葉には魂を救う力があるのです。子供たちを信仰に導く時に、聖書を一緒に声をあわせて読むなら、その小さな魂に御言葉が宿られるのです。聖書の御言葉には力があります。救いの業が現れます。
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10:15)とあります。使徒たちや、昔のクリスチャンたちは舗装されていないゴツゴツした道を、サンダルのような履物しかなくても、どこまでも歩いていきました。当然足は汚れ、傷がつき、とてもきれいとは言えませんでした。しかし、「なんと美しいことか」と称賛されているのです。
主イエスによって遣わされ、十字架の言葉を語り告げる者は、何よりも素晴らしい美しい働きをするのだと言われているのです。
福音のために更に祈りましょう。私たちが熱心になれば、この世の神(サタン)もしっかりと働き、邪魔をするかもしれません。失望させようとするかもしれません。裁き合いをするように仕向ける事があるかもしれません。隙を与えず、聖霊によって祈りましょう。まず心を合わせて祈ることが必要です。
その足によって福音が届けられなければ救いの御業は起こされないからです。今年も良いニュースを届ける足として用いられたいと願います。救いは神の御業です。私たちは福音を届けるのです。神と共に働き、神の御業に用いられる事は、何よりも幸いな素晴らしい事です。


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