阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年2月4日
「わたしはあなたを助ける」
(詩編34:16−23)

   主イエスの地上でのお働きは、人々に神の国を宣べ伝え、救いと癒しを与える事でした。
 主は、弟子たちに全世界の罪の贖いとなられて十字架で死なれ、三日目に甦られることを告知されました。主イエスは、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(ルカ9:23)また、「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」(ルカ9:25)と、主イエスの命を得て、その命に生きる事を教えられました。
 人は生まれてから召されるまで生きていきます。主イエスを信じて生きることほど幸いなことはありません。主イエスを信じて永遠の命の確信を持った時から、どのような時も主が共にいて下さり、助けてくださる事を知ったからです。
 詩編34編は、私たちに賛美と信仰と、祈りと確信を与えて下さる御言葉です。イスラエルの2代目の王となったダビデですが、その道筋は平安な道ではありませんでした。大変な苦難の中に勝利し、導かれていきました。
まだ、幼少の時、父親エッサイの羊の番をしている頃に、預言者サムエルによって次の王になると、油が注がれました。ある時、父親から戦場に出ている兄たちを見舞うように言われて、戦場まで出かけた時、イスラエルを侮辱し、戦いを挑む大男、ゴリアテの挑戦を受けました。ダビデは、石投げと5つの石をもって戦いゴリアテを倒しました。やがて当時の王であったサウルに召し出され、仕えるようになったのです。サウルはダビデを戦いに派遣し、ダビデは必ず勝利して戻ってきました。それは、「主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた」(Tサムエル18:14)とあるように、主が共にいて勝利を得ることが出来たのです。
しかし、サウルはダビデに嫉妬し、憎むようになってしまいました。ダビデは命を狙われるようになって、サウルの許から逃亡し、さすらわなければなりませんでした。サウルは執拗に追いかけて命を狙いました。
ダビデは、敵であるガトの王アキシュの下に逃げたのですが、アキシュの家来に、すぐにダビデであると見とがめられてしまいました。ダビデは恐れて、気が狂った人を装って難を逃れたのです。
不遇の時代であり、命の危機を常に覚えなければならない時でした。
ダビデはそのような時にも主を賛美しました。また、苦難から常に救って下さるお方であることを告白しています。
「わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった― この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。」(詩編34:5,7)
 主は常に助け出してくださったのです。
この詩編は、クリスチャンの生き方を示しています。
どんな時にも神を崇め、賛美する。順調な時だけではなく、逆境の中にあっても、神を待ち望み賛美の声を上げる事を教えています。「口と魂」で、また、心を一つにして神を賛美できる事自体が大きな祝福であり、力です。
 また、この御言葉は、神を畏れること、敬うことを教えています。神を畏れるとは、神にひれ伏し神に従う信仰の姿勢を言います。これが信仰の基本なのです。神を軽んじるなら、生きておられる方を体験することはできないのです。「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。―主に求める人には良いものの欠けることがない」(詩編34:10、11)この御言葉は、良い物が欠けてしまって、それが満たされるというより、良い物は欠けることなく満たされ続けるという意味です。恵みと慈しみがいつも追ってくるのです。
この詩編の中心的な教えは19節の御言葉です。「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救って下さる」(34:19)
悔い改めの大切さを教えています。人は、生まれつき知らず知らずのうちに高慢になってしまう性質があります。自己中心という罪をもって生まれてきているからです。
サウル王が退けられた理由は高慢でした。そもそもイスラエルに王が立てられたのは、民が他の国と同じように王が欲しいとサムエルに強く願ったからでした。王としてサウルが選ばれたのですが、彼は背が高く、美しい若者でした。謙遜な心を持っていたのです。サムエルは、民と王に「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」(Tサムエル12:24)と言って、サウルに国を委ねました。
サウルは王になってから、間違いを犯すようになりました。サムエルに委ねられている犠牲を勝手にささげてしまい、また、アマレクとの闘いで、戦利品を欲のためにとっておきました。神を軽んじるようになったのです。
「主が喜ばれるのは 焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に 高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは 王位から退けられる」(Tサムエル15:22)とサムエルは語りました。
サウルは、神を畏れ敬い、聞き従うことを軽んじて、王位から退けられてしまうのです。
主は聖なる方です。偽りを言わず、悪を避け、御心を行い、平和を作りだす、平和を追い求めていくことこそ、神を畏れる者の第一歩といえるでしょう。
「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救って下さる」(34:19)とあります。心を打ち砕かれるとは、罪を素直に認めて心から悔い改める事です。今だれでも知っている賛美歌「アメイジング グレイス」を作詞作曲した、ジョン・ニュートンの回心とその後の生き方は有名です。
母親はクリスチャンでしたが、早くに召されてジョンは信仰を持つことはありませんでした。成長してから奴隷船の船長として働き、奴隷とされた人々に対して、心に負い目をもつこともありませんでした。ところが嵐に遭い、死ぬような目に遭った時、「神様助けてください」と祈りました。幼いころの母の信仰の姿勢が心のどこかに残っていたのです。
聖書を読む姿、祈る姿、礼拝する姿は、幼い者の心に必ず刻まれるのです。
罪深い自分の姿に気が付き、やがて牧師としての道を歩みました。
ニュートンは、全世界で今も歌われ、クリスチャンでない人々の間でも歌い継がれる名曲を残しました。心砕かれて、主イエスを信じ、従う信仰に生き方を方向転換すること、これが悔い改めです。
 さらに日々御心に従えたかどうかを探り、そうでなかったとしたらいち早く悔い改めることが、本当に大切なのです。
「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」(ヤコブ4:10)
主イエスに従おうとすれば、試練や信仰の戦いに遭うかもしれません。試練のために心が弱くなってしまう事があるかもしれません。しかし、主はその全てから助け出し、「骨の一本も損なわれない」と言われます。             主イエスの十字架によって、信じる者の魂はすでに贖われ、主が常に共に歩んでくださり、避け所となって下さいます。キリストこそ安全な場所であって、ここにいれば大丈夫なのです。主イエスはわたしたちの避け所です。
完全に罪から解放され、赦されている者として、神を畏れ、心から賛美と感謝をささげ、御言葉を愛し、信仰によって歩み、神に仕えて用いられるものでありたいと願います。
「見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い 飢えから救い、命を得させてくださる。われらの魂は主を待つ。主はわれらの助け、われらの盾。」(詩編33:18―20)。
主イエスは救い主、助け主、常に助けて下さるお方です。
心から主イエスを崇め、褒め称えましょう。


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