阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年2月11日
「すべての道で」
(フィリピの信徒への手紙3章5−9節)

 使徒パウロは、自分の事をこのように紹介しています。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:5−9)
 パウロは、ダマスコへクリスチャンを逮捕するために出かける途中、復活の主イエスにお会いしました。パウロは、熱心にクリスチャンを迫害することが神の御心であると信じ、ステファノの殉教の時も石を投げる人々の上着を預かっていました。パウロは、復活の主イエスにお会いした時、目が見えなくなり、人に手を引かれてダマスコに行き、三日間断食をして祈りました。主イエスからアナニヤという人が遣わされ、手を置いて「兄弟サウロ、主イエスはあなたの目が見えるようになり、聖霊に満たされるよう私を遣わされました」と祈ってくれた時、目からうろこのようなものが落ち、鮮やかな回心の経験をしました。
そして、直ちに「この人こそ神の子である」(使徒9:20)と証しを始め、ユダヤ人たちを驚かせ、うろたえさせたのです。迫害のためにやって来たパウロがイエスこそキリストであると宣べ伝え始めたからです。パウロは生まれながらにローマの市民権を持つ者であり、その生まれとイエスに会う前の境遇は、地上での社会的な地位の高さを誇るものでした。ところがパウロは、それらの地上での地位や名誉や知識は損失であると言い切りました。そればかりか、主イエス・キリストの素晴らしさを深く知れば知るほど、他の一切は損失と考えるようになりました。「塵あくた」とみなしたのです。
 パウロにとって、十字架にかかり、死なれて三日目に甦られた主イエスこそが全てであって、この方の命の中に生きたいという願いがすべてであったのです。
 パウロは主イエスを信じてから、伝道者としての道を歩きました。3回の伝道旅行をし、2回目の伝道旅行では福音を初めてヨーロッパに伝えました。パウロは、伝道旅行の後、エルサレムへ行き、そこで異邦人を神殿に入れたという告発を受けて、投獄されることになりました。
パウロをめぐり、エルサレム全体が大騒ぎになってしまい、ローマの千人隊長がパウロを鞭打って取り調べをしようとしました。パウロが、「ローマの市民権を持つ者にそのような事をしても良いのか」と言うと、千人隊長はパウロを縛り、鞭打ちにしようとしたことで恐れを感じました。ローマ市民には裁判をしないでこのような事をしてはいけなかったのです。パウロはカイサリアに護送されて裁判を待ちます。しかし、総督フェリクスによってそこで2年間も軟禁状態におかれてしまうのです。やがて総督がフェストゥスに変わった時、パウロはやっと弁明の機会が与えられましたが、ユダヤ人たちの告発に対し、ローマ皇帝に上訴することを望みました。ローマ市民権を持つ者は皇帝に上訴することが出来ました。「わたしはユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれもわたしを彼らに引き渡すような取り計らいはできません。わたしは皇帝に上訴します」(使徒25:11、12)と語り、ローマへと送られることになりました。パウロは、「私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」ことを宣べ伝えたのであって、人々にキリストの福音を語っただけだという事を証言したのです。やがてローマに到着の後は、パウロ自身が借りた家で2年間自由に神の国を宣教して、来る者は誰でも歓迎するという働きをしました。後に皇帝ネロの時、パウロは殉教しました。これがパウロの生涯でした。
 パウロは、天地創造以前に神は私たちを愛して召し出されたと書き記しました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:4)神は、天地の造られる前から私たちを神の子としてお召しになったのだということが分かります。その理由は、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるため」(エフェソ1:6)であり、私達は「この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるのです」と続けられています。パウロはガラテ書1章15節では、「母の胎内にある時から選び分かたれ」とも記しています。
パウロがそうであったように、神は私達をも天地創造の前から、また、母の胎内にある時から、聖別され、キリストにあってご自身のものとされたことを覚えて、主を崇め賛美します。主イエスは遠いお方ではなく、共におられる方であって、創造の前から私たちを知っておられ、ご自身のために選んでおられたとは、何と不思議ですばらしい事ではないでしょうか。
 パウロが歩んだ道は神が導き続けた道でした。ファリサイ派の指導者として権力を持つことが出来たはずでしたが、かえって損失と考えるようになったのは、あまりにもキリストの救いが尊く、また召された道が厳しくても栄光に富んだものであったからでした。
 私たちは主イエスの十字架の血潮で贖われ、罪赦され、愛されています。これは神の豊かな恵みによります。そして、生涯主イエスが私たちを正しい道、御心の道に導いてくださいます。私たちがどのように進めばよいのかわからない時、「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け 右に行け、左に行けと。』」(イザヤ30:21)と語られます。
 私たちは、神に聞くことのできる耳を持つ者でありたいのです。語ってくださっても聞く耳がなければ御声は聞こえないのです。
ふだんの生活の中で、神の御声を聞かなくてはなりません。今日一日導きを求める時、神はこれがあなたの歩むべき道であると教えて下さいます。些細な事でもなにかを決断するときは祈り、御心をさぐりましょう。
必ず主は答えてくださいます。主イエスを心から信頼し、御心に従って歩む道は険しいかもしれませんが平安の道であり、命の道です。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5,6)全身全霊をもって主を信じる事、100パーセント信頼する事です。私たちは、自分には知識や経験があり、物事を判断することに長けていると考えます。しかし、立ち止まって主イエスに聞くことは、本当に大切な事です。わたしたちは「おのおの自分の道に向かって行く」者であり、そうしたいという願いを持つような者です。
 立ち止まって静かに主イエスの導きを求める事ができるのは、主を信じる者の持つ特権です。パウロはローマの市民権を持っていましたが、私達は神の国の国籍を持つ者なのです。神の国を思い、そこから遣わされていることを思い、神の御手の中にあって、すべての道で導きを求める事、これが私たちの祝福であることを感謝します。神が導き続けてくださる道を歩きとおした時、ただ神の下さる朽ちない冠を受けるばかりであることを覚えます。地上での賞賛や成功の喜びはこの地上だけのものです。朽ちてなくなってしまうのです。神の下さる朽ちないしぼまない冠が備えられている事を覚えて、ひたすら導きを求めて、命の道を歩み、また命の道を人々に示し続けて行きたいのです。


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