阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年2月18日
「願いなさい、喜びで満たされる」
ヨハネによる福音書16章20−24節

 主イエスは十字架の直前、弟子たちと過ぎ越しの食事をなさいました。ヨハネによる福音書は、13章から17章まで、その席で主イエスがお教えになったことが記録されています。主は食事の席でご自分がすぐに父のもとに帰られることを思われ、立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまき、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い、腰の手ぬぐいで拭き始められました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:14,15)と教えてくださいました。神の子が、弟子たちにへりくだって仕え合う事を僕の姿をとられて模範を示されたのです。なぜなら、弟子たちの関心は自分たちの中で誰が一番偉いのかなどと言う事であったからです。(ルカ22:24)
心の目が開かれていないので、主イエスの教えが理解できていませんでした。
主イエスはご自分が父のもとに帰られた後、聖霊が与えられ、また、この世のものではない主イエスの平安と勝利が与えられていることを教えて下さり、弟子たちに慰めと希望を与えてくださいました。
弟子たちは、主イエスが「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、また、しばらくすると、わたしを見るようになる」(ヨハネ16:16)と言われても、何の事を言っておられるのかわかりませんでした。主イエスは十字架によって世のすべての罪の贖いを成し遂げられ、天に昇られることを話されたのですが、それは理解できることではありませんでした。
この晩餐の後、主イエスはオリーブ山で祈られ、逮捕されて、大祭司と総督ピラトの下で裁判を受け、十字架刑の判決を受けて、ゲッセマネで十字架の死をとげられます。
弟子たちにとっては悲しみの極みでした。頼りとしていた主イエスが十字架に架かられ、死んで葬られたからです。主イエスは「あなたがたは泣いて悲嘆にくれる」(ヨハネ16:30)と言われました。
しかし、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)と、女性が子供を出産するときのことを例にとって教えられました。出産の苦しみは、一人の人間がこの世に生まれ出たことの喜びに変わり、その苦痛を思いださないと言われたのです。
「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16:22)
主イエスの十字架の死を心から悲しみ、絶望しても、それで終わりではない事、三日目に甦られた主に再びお会いし、喜びに満たされる事、その喜びは誰にも奪えないことを教えてくださいました。
なぜなら、約束の御霊が来られるからと主は教えておられるのです。主イエスが約束された聖霊は、信じる者の内に働かれて素晴らしい働きをなさいます。この方は、「弁護者」であり、真理に導かれる方です。罪について、義について、裁きや過ちについて、心の目を開いて教えて下さるのです。
聖霊に満たされたその時には、真理である主イエスの御心を知り、主イエスの中に憩いを得る事ができるのです。
救い主を十字架に架けて、一時は勝利し、喜んだ世は、すぐに主イエスの勝利を知ることになります。主の復活です。墓に葬られたままではなく、主イエスは復活し、弟子たちに再会するのです。
主イエスの復活の日、日曜日の夕刻、弟子たちはユダヤ人を恐れて家に鍵をかけて集まっていました。そこへ復活の主イエスは来られました。「あなたがたに平安があるように」と挨拶され、弟子たちは、「主を見て喜んだ」(ヨハネ20:19)のです。
そこで主イエスは、弟子たちを「遣わす」すなわち、宣教のために全世界に遣わされる事と、「聖霊を受ける」ことを告げられたのです。
誰にとっても、これですべては終わりだというような体験をすることがあります。主イエスの弟子たちにとっては、主の十字架の死と埋葬でした。もうすべてが終わったと考えるのが普通です。これ以上どうにもならない。ガリラヤ湖へ帰って漁師に戻るほかはないのです。事実、ペトロたちはガリラヤ湖で漁をしていました。
しかし、主イエスを信じる時に、もうこれ以上はどうしようもないといった絶望は必要ありません。必ず新しい道が備えられているからです。
主イエスはガリラヤ湖畔へ来られて食事を共にし、ペトロを再び召されたのです。主イエスを大祭司の庭で否んだペトロはどれほどうれしかったことでしょうか。生き返った心地であったことでしょう。
事実、霊の目が開かれ、主の復活の命に預かって、さらにペンテコステの日に約束の聖霊が注がれた後に、大胆に福音を語る者となったのです。
主イエスは、私達にも悲しみが喜びに変えられる事を教えてくださいます。私達にも悲しい事や、苦しい事、明日を恐れる事、悩みがあります。また、過去にそのような体験をしてきたのではないでしょうか。
弟子たちの主イエスの十字架という失意の体験は、復活という勝利の体験に変えられました。悲しみは喜びに変えられたのです。
過去にあったことは、すべて主イエスが知っておられるのです。生きておられる主イエスによって、その痛みは、喜びに変えられたのです。
大切な事は、聖霊によって心の目が、信仰の目が開かれて主イエスを心に受け入れ、どこまでも信じ抜くことです。そうすれば、自分は主イエスの復活の命に生かされていること、「天に国籍を持つ者」である確信に生きることが出来るのです。
人にとって一番つらい事は「孤独」という事ではないでしょうか。だれにも顧みられないとしたらどんなに寂しく悲しい事でしょうか。しかし、主イエスは、「わたしはあなた共にいる」と語りかけて下さり、私達も、「主に従って行きます」とお答えすることが出来るのです。主がおられるならどこにも孤独の陰はありません。
また、人に受け入れられないと思う事や、拒絶されていると思う事もあるかもしれません。理解されないと思う事も悲しいことです。
しかし、主イエスは私たちを理解し、受け入れ、友となって下さるお方なのです。聖フランシスコの祈りの中に、「ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それはわたしたちが、自ら与えることによって受け、許すことによって許され、自分のからだをささげて死ぬことによってとこしえのいのちを得ることができるからです」という言葉があります。この人は、12世紀のフランシスコ会の修道士で、小鳥にも伝道したといわれる人です。慰められるよりも慰める者であり、愛されるよりも愛する者でありたい。許す者でありたいという思いがにじみ出ている祈りです。
「受けるよりも与える方が幸い」であると教えられた主イエスの教えと、復活の命にあずかり、その命の中に歩む者は、主イエスの喜びに満たされて生きることが出来るのです。
また、主イエスの名によって祈るというすばらしい祝福が備えられています。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16:23)
主イエスの名にはこの上ない権威があります。イエスの名よって祈るとは、イエスの権威によって祈るという事です。
私たちは、信仰を持って主イエスの名によって祈り、求めるなら、父はお聞きくださいます。
主イエスの名によって何を祈るのでしょうか。天において大きな喜びが沸き上がる祈りです。イエスの復活の命と聖霊に満たされて、主イエスの名によって祈るなら、父は「実」すなわち多くの人々の救いを残してくださるのです。「あなたがたがでかけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)とあります。
悲しみは逃げ去ります。天の喜びに満たされ、天の父にイエスの名によって御心を願ってまいりたいと思います。


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