阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年2月25日
「声を聞き分ける」
ヨハネによる福音書10章27−30節

 主イエスはご自分を「良い羊飼い」であると宣言され、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。事実、すべての人のために十字架で罪の身代わりとして命を捨ててくださいました。
バプテスマのヨハネは、主イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と呼び、主イエスがこの世に来られたのは、神の小羊として犠牲となり、十字架によってすべての人を救い、永遠の命を与えるためであることを証ししました。
人間の罪が世に入ったのは、エデンの園でアダムとエバが神に背いた時からです。人は、神に従わないで、自分の欲に従ってしまうようになってしまいました。神との完全な交わりが絶たれ、罪の中にいる人間は、滅びに向かって進んでいかなければなりませんでした。
しかし、神は直ちに救いの道を開かれました。それがメシア、キリストによる罪の贖いです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とあるように、人を愛され、イエス・キリストという救いの橋を架けてくださいました。
旧約聖書の時代、人が罪の許しを得るためには、罪の為の犠牲をささげなくてはなりませんでした。それらの規定はレビ記4章に記されているのですが、非常に複雑な規定があります。祭司が煩雑な手順を踏み、必ず牛や羊、山羊などの動物や、山鳩、家鳩などの犠牲がささげられました。貧しくて動物や鳩を捧げられない人は、小麦粉をささげて、それらを焼き尽くして、「祭司が、こうしてその人のために犯した罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される」(レビ4:10)とあるのです。それは繰り返し繰り返し行われなければなりませんでした。これらは、やがて完全になされるキリストの贖いの予型でした。ヘブライ人への手紙によれば、「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(10:10)「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」(10:18)とあって、主イエスが神の小羊としてただ一度十字架で犠牲となられたことで罪の贖いは完成されているとあります。
そして、主イエスはご自分を「良い羊飼い」と言われました。
旧約聖書エゼキエル書34章では、イスラエルの王や、宗教的指導者たちを、羊の群れを養わず、守らなかった牧者に例えています。そこで、「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを捜し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを捜すように、わたしは自分の羊を捜す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す・・・わたしは良い牧草地で彼らを養う。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる」(エゼキエル34:11以下)。主ご自身が良い牧者となって、羊を養って下さると言われました。
 飼う者のいない羊は散らされ、野の獣の餌食にされ、だれも尋ね求める者もないのです。
主イエスは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのです。」(マタイ9:36)。
彼らは、生活の心配や、病気、さまざまな思い煩いで途方に暮れ、打ちひしがれてどうすることもできない状態でした。全く生きる希望のない彼らを、主イエスは深く憐れみ、心を動かされたのです。
羊は羊飼いがいなければ弱り果て、生きていくことができません。
主イエスがご覧になった人々は、生きる希望を持つことのできない人々でした。主はこれらの人々の羊飼いとなってくださいました。この方の声に聞き従っていくなら、緑の野や、きれいな水場に導かれ、体も魂も生き返らせていただけるのです。主イエスは弱っている人々にどのように生きて行けばよいのか教えて下さいました。「明日(あす)のことまで、思い悩むな。明日(あす)のことは明日(あす)自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と教えてくださいました。天の父は必要をすべてご存じなのだから、「神の国と神の義」を求めるなら、必要の一切は添えて与えてくださると、約束してくださいました。何も心配しないで、神のなさることを信じればよいというのは何と幸いな事でしょうか。
 人は、神が命の息を吹き入れられて創造された霊的な存在です。本来神と共に生きていく者であったのです。しかし、罪のために神との関係が断絶し、弱り果て、死ぬべきものとなってしまいました。
主イエスは、このような者の体を生かされるだけではなく、魂を生き返らせて下さるお方なのです。
主は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と、魂に必要な糧について教えて下さいました。
 体も心も生かされるためには、主の言葉を聞かなければなりません。
そのために私たちは毎日神の言葉、聖書を食物のようにいただくのです。
神の言葉は私たちの魂を養い、強めて、信仰の喜びと力を与えてくれの
です。病気が治っても、心が治らなければ本当に健康になったとは考ら
れないと良く言われます。病気が治っても、死にたいと考える心から解
放されない人々がいるのは事実です。
主イエスが神殿の境内を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲み、質問しました。「いつまでわたしたちに気をもませるのか。もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい」(ヨハネ10:24)。とても失礼で、救い主、メシアに対する態度ではありません。主イエスは、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」と言われました。それで、ユダヤ人たちは、神を冒涜したとして、主イエスを石で打ち殺そうとしたのです。
約束のメシアが来られて罪から解放し、永遠の命を与えようとされているのに、ユダヤ人たちは信じようとしないばかりか、主イエスを拒絶し、石で打とうとさえしました。彼らには頑なで、悔い改めようとしない心しかありませんでした。
主イエスの羊は、主イエスの声を聞き分けるのです。この方こそ良い羊飼いであり、命を与え、養って下さる方。いつも共にいて守って下さる唯一の救い主であると信じ、その御声に聞き従います。
主イエスは、毎日羊の名を呼び、羊の先頭にたって歩き始められるのです。羊は羊飼いの声を知っているので、安心して従って行きます。
私たちは毎日、この方の声を聞き分けているでしょうか。それはその声を聞いて、信じて従って行くという事です。
主イエスは、「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ10:27)と言われました。主イエスはご自分の羊を完全に知っておられて、その羊は常に主に導かれて行くのだと言われたのです。
主イエスが下さるのは、永遠の命です。主イエスを信じた時に、罪の許しと共に、永遠の命が与えられました。その命とは、主イエスの復活の命であって、新生の命です。主イエスを信じた者は、地上で生きながら、永遠の命に生かされているのです。それは、だれも奪い取ることが出来ないものです。
この世の命が終わっても、永遠の命を持つ者は、居所が変わるだけなのです。本来おるべき本国に戻り、主イエスの御許で永遠の安らぎに憩う事ができます。
この世にある時も、召された後も主イエスの命に生かされるとは、何と幸いな事ではありませんか。
「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(エゼキエル34:16)
失われたものとは、迷子になっているものをいいます。主はそのような者を捜し出して救うお方です。迷子を捜し出して連れ戻して下さる、心の傷をいやし、弱った者に力を与えて強くして下さるお方です。
この真の牧者の声を聞き洩らすことのないようにしたいのです。
そして、導かれるまま行くことができるように、その声をよく聞き分ける耳を持ちたいのです。日々牧者の声を聞き分け、日々励まし合い、主イエスの救いを喜び、どこまでもこの方に従っていきましょう。


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