阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年3月4日
「忍耐強く走り抜く」
ヘブライ12章1−2節

 聖書は、神の御言葉です。主イエスの十字架の死と復活によって人の罪が贖われ、永遠の命の中に生かされるという、完全な救いについて語られています。また、キリストの贖いを受けた人がどのように生きて行くべきかをも示しています。
ヘブライ人への手紙12章1節以下では、人の生涯を競技に例えて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうと、励ましています。
ヘブライ書の著者はパウロであるとされていますが、真の著者は聖霊ご自身です。
パウロはコリントの教会へ宛てた手紙でも、信仰の在り方を競技大会に例えて、人々を励ましています。コリントの信徒への手紙9章には、「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」(Tコリント9:24)と記されています。というのも、コリントはギリシャの町ですが、ここで2年に一度競技大会が開かれていたのです。競技大会の種目は、最初短距離走だけでした。1スタディオン(約200メートル)を全力で駆け抜けるのです。
その後400メートル走、幅跳び、円盤投げ、やり投げ、レスリング、ボクシングが加えられ、さらに危険な戦車競技が行われるようになりました。パウロはこの競技大会を思い起こしながら、手紙を記したのかもしれません。現代のオリンピックでは3位まで、金、銀、銅のメダルと記念品を受けられるのですが、古代では、1位の選手だけがオリーブの葉で作られた冠を得ることが出来ました。この冠が栄誉であったのです。
ですから、パウロは「賞を受けるのは一人だけです」と書いたのです。
「あなたがたも賞を得るように走りなさい」と、続けられています。どなたからの賞でしょうか。朽ちない冠を備えて下さる、主イエスからの賞です。
古代の競技場は、現在の競技場と同じような形をしています。真ん中に競技をする場所があり、その周囲に観客席があります。サッカーの競技場や、スケート競技会場と同じような作りです。
 ヘブライ11章は信仰の章と呼ばれていて、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、主イエスの遠い先祖となったラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、大勢の信仰者の名前が記されています。旧約聖書に名を連ねている人々ですが、このところに載っていないこの後の時代の信仰者の名は、「命の書」(黙示20:15)に記されているのです。
 これらの信仰の証人が囲む中で、今私たちはまさに自分の競争を走っている所です。証人たちは、声援を送っているのです。
競技者は、「すべてに節制」(Tコリント9:25)するとあります。自分を競技のために整えるという事です。この場合、自分の欲を抑えて慎む事と考えることが出来ます。また、走る時に、荷物や、絡みつく罪をかなぐり捨てなければ、走ることはできません。
人生に重荷はつきものですが、御言葉は、必要のない重荷をかなぐり捨てよと教えています。必要のない重荷とは、実体のない取り越し苦労を捨てるという事です。人はまだおきていない苦労を心配することがあります。主イエスは、「明日のことまで思い悩むな」と教えてくださいました。重荷は主イエスが引き受けて下さるのです。「あなたの重荷を主に委ねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる」(詩編55:23)とあります。主イエスに委ねる信仰を持つ者は幸いです。
また、「絡みつく罪」をかなぐり捨てることが教えられています。罪はしつこいのです。人が生まれながらに持つ自己中心は、捨てても捨てても心に挑んできます。
 昨日は三浦綾子読書会でした。「海嶺」下から学びました。1年4ヶ月の漂流の後、北アメリカでネイティブアメリカンの奴隷とされていた、音吉、久吉、岩吉の3人は、イギリスのハドソン湾会社に救い出されて、ロンドン経由、マカオに向かいます。アフリカ沖を航行するとき、奴隷貿易の島の沖を航行しました。
フェニホフという牧師が島の方を向いて祈っているのを見て、ルイスという婦人が何を祈っているのか不思議に思い聞きました。フェニホフ牧師は、売られた奴隷のために祈り、「我々白人の罪を懺悔していました」と答えたのです。クリスチャンであっても、奴隷売買に何の罪の意識をもたない多くの人々がいたのです。音吉は牧師に、「いつも人は皆同じ人間と教えているのに、なぜ、白人はアフリカの人を売買できるのか」と聞きました。牧師は、「説教を自分の問題としてではなく、聖書の中の物語として聞いている人が多いからです」と答えたのです。神の言葉を聞くけれども、単に話として聞くだけなので、自分の内面を問う事がなく、罪に気が付かないということを指摘したのです。
奴隷売買は多くの富をもたらすものだったのです。富の欲がもたらした罪の悲劇だったのです。
罪に対して目が開かれ、日々主イエスの十字架の前で悔い改める事は幸いなことです。
主イエスの新しい戒めである、「互いに愛し合いなさい」という教えは、自分を愛してくれる者や、自分が愛する者を愛していくという事ではありません。主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:44−48)と言われました。これが天の父の子である証となるのです。この御言葉をしっかり受け入れて、そのようにしたいと祈りながら生活するなら、私達の生活も、また周囲も変えられていきます。御言葉は生きているのです。
聖書の言葉を自分の事として聞き、信仰によって受け入れていくときに、人は栄光から栄光へと変えられ、キリストの姿に似せられていきます。
また、それは、信仰の節制であり、やみくもに走るのではなく、ゴールにむかって自分のコースを走ることになるのです。
私たちは、主イエスを信じて初めて自分が生まれた目的を知ることができました。何のために生まれ、何のために生きるのかと、多くの人は考えます。それは、主イエスに出会って初めてわかるのです。自分のために生きるのではなく、神と人に仕えるために生きるのであるという事です。
ある人が病気になって入院しなければなりませんでした。喉が渇いてお見舞いにオレンジを頂いていたことに気づきました。ジュースにして飲んだ時に、本当においしくて、うれしくなったのです。そして、このオレンジは、どこで誰が種を蒔き、収穫し、運び込み、売り買いし、どのようなルートで自分のもとに来たのか、どれだけの人の手を経て自分の喉を潤すまでになったのかと、不思議な思いにとらわれました。
自分の仕事が、あるいは行いがいつかだれかの喜びとなり、助けとなるなら、なんと素晴らしいことではありませんか。オレンジを栽培した人は、このように喜んだ病人がいたことは知りません。しかし、本当に役に立ったのです。
自分では自分のしたことの結果を見る事がなくても、日々の生活が神の栄光をあらわすものであり、人のために役立つものとなっている、それが忍耐強く走り抜く毎日につながります。
御言葉はゴールするまで忍耐強く走るようにと勧めています。そのレースは障害物競争のようなものかもしれません。走りづらいかもしれないのです。主イエスは、信仰の創始者であり、完成者です。私たちの信仰の源であり、完成に導いて下さるお方です。この方から目を離さないでいるなら、私達は必ずゴールすることができます。主イエスは、十字架の恥をも厭わないで、死なれ、復活され、神の右に着座されました。
主イエスを見上げ、多くの信仰の証人に雲のように取り囲まれて、私達は日々主イエスが待っておられるゴールを目指して走り続けましょう。
ゴールした時に天の父が備えていてくださるのは、朽ちる冠ではなく、朽ちない冠、命の冠、神の栄冠なのです。


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