阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年3月18日
「造り主に倣う」
マタイ5章21−26

 今年のイースターは、4月1日です。その一週間前3月25日から主が十字架に架かられた受難週が始まります。
最近イースターが世間でも取り上げられるようになりましたが、それは、キリストの復活を祝うという信仰的なもの以上に、美しく飾ったイースターエッグを売るといったイベントや、商売上のことにあります。丁度、バレンタインでチョコレートを売り出すような捉え方であると思います。
クリスチャンにとって、イースターは、クリスマスと同じように重要な信仰を顧みる時です。神の独り子である主イエスが受肉されなかったら、そして、十字架の贖いの死と、三日目の復活がなければ、永遠の命を与えられる救いがなかったからです。
十字架で死なれ、復活された主イエスは、今生きておられる救い主です。私たちは主の復活の証人とされているのです。
人は皆、罪をもって生まれます。原罪があるために生涯罪に縛られています。表に現れて来る問題の根は、心の中にある罪によります。
アダムとエバがエデンで罪を犯し、神の戒めに背いた時から罪が人を死に追いやることとなってしまいました。
アダムとエバは、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」(創世記2:16,17)という、神のたった一つだけの戒めを守ることが出来ませんでした。
エデンから追放されたアダムとエバは、土を耕して生きる者となり、やがてカインとアベルを産みました。4人家族になったのですが、アベルのささげものが受け入れられ、カインのささげものが受け入れられなかったことで、恐ろしいことが起こりました。カインは激しく怒り、顔を伏せたとあります。神は、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:7)と言われました。
もしお前が正しいのなら、顔をあげられるはずだ。正しくないなら罪が待ち伏せしている。罪を自分でコントロールし、罪を犯さないように心を治めなければならないと示されたのです。カインは、神のその語りかけにも悔い改める事はありませんでした。カインはアベルを襲って殺してしまい、さらに、神の「お前の弟アベル、はどこにいるのか」という問いに、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えたのです。何という答え方でしょうか。神を侮りました。
人は、殺人だけではなく、神に偽りを語ることができるのです。大変な罪です。創世記の最初から、あからさまな人の罪の歴史が記されていることに驚くのです。
しかし、この罪は、アダムやカインに限ったことではありません。なぜなら、神は常に人の心の中にある罪をご覧になるからです。
主イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者はだれでも最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:21−22)と教えられました。
人は怒りやすい性質を持っていますが、ここで主が言われるのは、いつまでも根に持って、忘れようとしない怒り、和解しようとしない怒りを禁止されているのです。怒りはその日のうちに治める事が教えられています。「怒(いか)ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒(いか)ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。}(エフェソ4:26、27)いつまでも怒りをそのままにしておくことは悪魔にすきを与えて、混乱や不信仰に陥れられてしまうのです。   
聖書に「ばか」ということばがあるのも驚きなのですが、これは、高慢な者が人に対して軽蔑を表す言葉です。ある時高名なラビが、自分の博識と宗教心に満足して胸をはって道を歩いていました。そこへ一人の貧しい人が通りかかり、挨拶をしたのです。すると、ラビは、「お前はばか者だ。醜くて愚かな者だ。お前の町の者は皆お前のように愚か者なのか。」と言いました。すると、言われた人は、「それはわたしにはわかりません。あなたは、創造主である神に向かって、『あなたの造られた者はなんと愚かで醜いのでしょう』と言ったらどうですか」と答えたのです。 
主イエスは、神が造られた者をわけもなく侮辱する者は、裁きを受ける事になると言われました。主イエスは、人を軽蔑し、その名誉を貶めるような者も裁きが待ち受けていると指摘されました。すべての者は、行動では殺人をしていなくても、心では殺人をしていることになるという教えに、襟を正すことが必要なのです。
これらの罪があるなら神との正しい関係を持つことはできません。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:1,2)とあります。罪がそのままにあるなら、神との交わりは絶たれているのです。そこで、犠牲をささげて神との関係を正しいものに戻さなければなりませんでした。
しかし、大切なのは犠牲をささげる前に罪を告白し、人との和解がなければなりませんでした。人が罪の贖いのために動物の犠牲を携えて神殿に上り、祭司にそれを渡す時、動物の頭に手を置き、「主よ、私は罪を犯しました。どうぞ赦してください。わたしは間違っていたのです。・・・・(具体的に告白する)。わたしは悔い改めます。この犠牲を受け入れて私の罪を赦して下さい」。と祈りました。
主イエスは、ユダヤ人ならだれでも知っているこの事を通して、大切な事を教えられました。この犠牲をささげる直前に、兄弟との不和や不正があったのなら戻って和解する必要があり、その後に神と犠牲をささげて和解することができるのです。
主イエスは、さらに和解について、速やかに和解することを教えられました。訴える者と裁判の場に行くことが、この時代には珍しい事ではありませんでした。被害者が加害者を捕まえて裁判所まで連れて行くことも珍しくはありませんでした。金銭問題のような場合には、借金を返せないと完済するまで投獄されることがありました。
主イエスは裁判所に行くまでに和解するようにと教えられました。自分の過ちを認めて謝ることは、謙遜な心がなければできない事です。
主イエスが、わたしたちに速やかな和解をするべきことを教えられているのは、今日という日に和解しないと、間に合わなくなるかもしれないからであると考える事ができます。
人の命は本当に儚く、自分で寿命を延ばすこともできないものだからです。だれでも明日があることを信じていますが、「あなたがたには明日の命がどうなるか、明日のことはわからないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(ヤコブ4:14)とあって、命は主の御手の中にあるものだからです。
一日一日がかけがえのない日であって、一日を精一杯御言葉によって生きていくことを求めて行くべきです。罪を犯さずに生きられる人はいません。しかし、主イエスの十字架の贖いを受けた者は、日々悔い改め赦されて生きる者です。直ちに悔い改める時、赦される喜びを知る者とされるのです。
かつては罪の中にあっても、今は、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨て、古き人を行いとともに脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けたのです。
主イエスの姿に倣う日々でありたいのです。主イエスに赦されない人はいません。主イエスが十字架に架けられた時、右と左に犯罪人が十字架にあったのです。そのうち一人は主イエスを罵りました。しかし、もう一人は、彼をたしなめ、「自分たちは自分たちの行為の報いを受けているが、イエス様は何も悪いことはしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」と言ったのです。主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:42,43)とお答えになりました。死に直面している犯罪人でさえ、悔い改めるなら救って下さるのが主の救いです。主の十字架を思い、人との和解、神との和解を求め、復活の主を崇め、罪からの救い、永遠の命を感謝しましょう。


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