阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年3月25日
(受難週)「十字架の愛」
ルカ23章32-43節

 今週は、主イエスが全世界の罪の贖いとして十字架に架かられた受難週です。来週は復活を記念するイースターを迎えます。
十字架刑は、ローマの死刑の方法で最も過酷なものでした。ですから、ローマ市民権のある者は、死刑の判決を受けても十字架刑はおこなわれませんでした。
主イエスは、罪とはなんの関わりもありませんでしたが、十字架の道を進まれました。主イエスは、ご自分がこの世に来られた目的を良くご存知でした。「人の子は仕えられるためではなく仕ええるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と言われました。
主イエスは、逮捕直前に、弟子たちと過越の食事をされました。過越は、ユダヤ人にとって特別な祭りで、出エジプトを忘れないためのものでした。
エジプトのファラオは、なんとしてもエジプトからユダヤ人を去らせようとはしませんでした。神はモーセを用いてユダヤ人を約束の地カナンへ導こうとされたのですが、ファラオは9種類の災いが及んでも去らせなかったのです。そこで、10番目に大変なことが起こりました。エジプト全地の初子(ういご)が打たれたのです。全国に大きな嘆きが起こり、ファラオはモーセとアロンに速やかにエジプトから去るようにと言い渡しました。
あらかじめモーセは、神から過越の準備をするようにと告げられていました。家族ごとに傷のない小羊を屠り(ほふり)、その血を玄関のかもいと二本の柱に塗っておく事。子羊は焼いて、酵母を入れないパンと、苦菜を添えて、旅支度のまま食べる事。過越の夜、かもいと柱に血の印がある家は救われ、そうでなければ初子が打たれて大きな嘆きの声が上がることが示されていました。この出来事を永遠に忘れず、神の救いを子々孫々伝えていくべきことが教えられていたのです。この過越の救いは、神の小羊である主イエスの贖いの型として示されています。
ペトロの手紙には、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。(Tペトロ1:18、19)とあります。丁度エジプトで奴隷となっていたように、罪の奴隷とされて、救いから遠く、滅びに向かっていた者を、神の小羊であるイエス・キリストが十字架に架かり、その尊い血により、罪の贖いがなされて新しい命に生きる者とされるという、救いが完成されたのです。
この救いは、信じる者すべてに及ぶものです。
「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」(ルカ22:7)とあります。除酵祭は過越の祭りと合わせておこなわれる祭りで、7日間家の中から酵母を取り除き、種の入っていないパンを食べるという祭りで、これも出エジプトの記念として、厳しく守られていました。それは、神の小羊が屠られる日でもあったのです。
主イエスは、ピラトによって死刑の判決を受け、十字架を負ってドロローサ(悲しみの道)と呼ばれる道を上って行かれ、ゴルゴタ(されこうべ)と呼ばれる処刑場で十字架につけられました。その時、二人の犯罪人も主イエスの右と左に十字架につけられたのです。
十字架につけられた主イエスを人々はあざ笑い、侮辱しました。前夜の裁判の場でも、ヘロデや人々からさんざんに嘲り(あざけり)を受け、罵られ、顔に唾を吐きかけられ、こぶしや平手で打たれたのです。鞭うたれ、頭には茨の冠が乗せられました。
ローマの兵士たちは、イエスが着ていた服を4つに分けて盗り、下着は一枚織であったので、切らずに誰のものにするかくじ引きで決めたのです。
これ以上ないほどの侮辱を受け、十字架に架けられた主イエスは、十字架の上で「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。
主イエスは、「赦す」ということを教えられました。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(ルカ6:37)。また、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6:12)と祈るように教えておられるのです。主イエスは、まさにその御言葉を実践されたのです。
十字架に架けられた犯罪人も、一人は主イエスを「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23:39)と罵りました。しかし、もう一人は、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:40―42)と言ったのです。
主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)とお答えになりました。
この犯罪人は、十字架上のイエスの執り成しの祈りを聞いていました。そして、自分の罪を顧みることができたのです。十字架刑を受けるのは、恐ろしい犯罪の結果ですから、この人は大きな過ちを犯したのでしょう。自分が犯してしまった事と、その報いを受けていることを認める事ができたのです。
さらに、もう一人が主イエスを罵った時、「神をも恐れないのか」と言ったのです。神を恐れるとは、神を認め、神に従う事です。神の戒めを守り、御心を求めて生きることです。この人は、神から離れ、罪の道を歩み、とうとう犯罪人として十字架で死ななければなりませんでした。神から離れていたことに気が付いて、主イエスに救いを求めたのです。死の直前で悔い改めることができました。
ところで、先週もお話ししたのですが、主イエスは、「兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:22)と教えられました。人殺しをしなくても、主イエスは心の中の罪を厳しく問われるのです。人は皆罪人なのです。
また、この犯罪人は、主イエスをキリスト(メシア)として受け入れる事ができました。この方はメシア、救い主であって、自分を救って下さるお方であることを告白しました。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。これは心からの信仰の告白でした。
主イエスは何とお答えになったのでしょうか。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。
主イエスは大切な事を教えられるとき、「はっきり言っておく」と言われました。アーメンということばを重ねて使われたのです。よくよくあなた方に言います。よく聞きなさいということです。
この犯罪人に、あなたは「今日」わたしとともに天の国に迎えられると約束なさいました。いつかまた、こんどではなく、今日なのです。主イエスを信じ、その罪を悔い改めるなら、今日、今あなたは主イエスと共に神の国に入るのだと約束されました。
わたしたちもそうなのです。犯罪者でなくても、心には罪があり、罪に支配され、神から遠く離れていた者でした。また、高慢な思いで、人を裁いたり、罪に定めていたような者でもありました。人の目にあるおがくずは認めても、自分の目にある丸太に気が付かないような高慢な者だったのです。
罪の道は滅びの道でした。主イエスは十字架で罪の代価を支払って下さり、救いを求める者すべてに永遠の命を差し出して下さいました。
主イエスを信じる者は、今日、今神の国に入ることができるのです。
今この時から主イエスと共に新しい命に生かされて行くのです。
主イエスは十字架で息を引き取られ、墓に葬られました。しかし、三日目に甦られ、私たちを復活の証人として下さいました。
 このような十字架の救いの道が備えられたのは、神の愛によるものです。私たちがどれほど罪深く、弱い者であっても、神は愛そのもののお方なので、愛し、永遠の命を与えてくださるのです。
私たちはやがてこの世の歩みを終える時が来ます。御国の希望があるのです。イエスと共に生きるのですが、それは今も同じなのです。主イエスは今共にあり、その愛を惜しげもなく注いでくださっているのです。


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